Archive for 2011.7

九相図

2011.7.13

 「九相図」が好きだ。そう言うと不思議がられるが、生きている状態から意識をなくし、死体となり、腐り、白骨化し、骨が砕けていく図は「死とは何か?」と考えさせてくれる。僕らは意識がなくなり、脈が止まり、息を吹き返さなくなったら「死んだ」と断定するだろう。もしくは、医師から「○時×△分、死亡確認」と言われたら「死んだ」とするのだろうが、その状態でも細胞は生きており、腐り、ウジ虫などの栄養となり、白骨化しても骨細胞はある。たとえ、跡形も無く消え去ったとしても、誰かの記憶にあったり、伝記などから新たに記憶されたりする。そして、「我思う、故に我あり」と所謂「生きている」状態でさえも全ては主観なのだから、誰かに思われる状態にあればそれは生きていると言えるのだろうか、などと疑問が生じてくる。もしくは、たとえ白骨化したり、「死んだ」と断定された状態であっても「意識がない」と周囲から思われているだけで、実は白骨化しても意識を持っていたらどうであろうか? 意識は脳の機能なのかもしれないが、脳が「なくなった」ら別の部分が「意識する」機能を持つようになっていたらどうであろうか? 脳の「意識する」機能がなくなる瞬間、最後に見たものにその機能を憑依させることをしており、ただ表意することができていないだけであったらどうであろうか? というような類いの疑問が、「九相図」を観ていると思い浮かんでくるのだ。いや、普段からそんなことを考えているのだが、より鮮明になってくると言った方が正しい。
 
 そして、この世の中は「もしかしたら」という可能性に満ち溢れているのだということを再認させられる。

雑記帳

2011.7.10

 6月の中頃にネタ帳兼雑記帳が切れたけれども、ラフ画や仕事のメモ帳として使用している「裏紙くん」を使えばいいやと思って買わずにいたら、こちらに書くことが滞ることに気付いた。忙しさも手伝ってなのだろうが、ネタ帳を使わない生活というのは考えがどんどん先に進んでしまって、いつの間にかひとりぼっちになっているのだ。自分しかいないのだから、何をしようと1人なのだが、ネタ帳に書き留めるというのは「ちょっと、お前さんお待ちになって」と止められて「じゃあ、茶の一杯でも・・・ついでにお団子も美味しそうだからもらっちゃおっかな」という小休止の役目があるようだ。どんなに大切な用件があろうと、急ぎ足で進み続ければ草履は擦り切れ、蹴つまずいてしまう。そうならないためにも、急ぎたいのは承知の上で、大事な考えであればむしろ休ませることが重要になってくるのだろう。そういえば、いつか読んだ脳科学かなんかの本にも「寝かせる」、「発酵させる」ことの大切さを説いてたな。
 
 それとは関係ないけれど、階段ですれ違って挨拶をしたおっちゃんに「あっついねー」と言われ、「あっついっすよー」、「暑くて死んじゃいそうだよー」、「溶けちゃいそうっすよー」と進みながら(相手が見えなくなっても)会話を続けた。階段に響く声が暑さと混ざり、こだまのようにも聞こえたが、「もう、6年になるんだな」と思った。夕方帰ってきて出会うばあちゃんには「おかえりー」と「ただいまー」とのやりとり。世間話や仕事の話、ここの人達は近所を超えるのか、それともこれが近所の在り方なのか。そういえば、朝霞もそうだった。現代だけれども、古いんだろね。