Archive for 2011.5

「四季無常図」について

2011.5.11

資料「四季無常図」について

「やぁ」と「まぁ」

2011.5.7

雨。雨だ。曇りと言いながら完全に雨だ。カメラとPCとソフトを購入しようと思って色々と計算し、テストシュートなどしていてカメラが一番購入する必要がなく、今まで通り、借りたり、技術でカバーしたりでいいやという結果に。技術は翻弄されなければ裏切らないので良い。「一眼も中判(カメラ)も持っていない写真家ってどうなの?」と突っ込まれたりするけれど、まぁいいじゃないと。原板3GBの静止画って8GB〜10GBを制作中は超えて、PCに4GBしか乗らないんだもん。添付のソフトじゃ、背中から腕が生えて、その腕を打ち抜いたらパンって破裂して、飛び散った破片が種となって地面からドドドっと樹々とバシュバシュっと氷柱が駆け上がって生えて、太陽のコアまで伸びて刺さったら蟻んこが生まれて「やぁ」って言うのが作れないんだよ。作っているものは一端すぎて、時間なんて足りないけれど、まぁいいか。

人生のかなしみ

2011.5.7

年を重ねることとかなしみが積もることは正比例するのだろうか。喜びの裏にはかなしみがあるが、かなしみの裏に喜びはあるのだろうか。たとえ幸福があったとしても。雪のように降り積もり、いつか溶けるのではなく、巨大なクレバスとなり、我が身は徐々に凍り、寿命が尽きるまで降り積もる。

穏やかな阿呆の日

2011.5.4

家事と並行して制作や作業で朝が終わり、資料も遅れながらも進む。先日、友人と呑んでいて「(作品の)アイデアが浮かばなくなったらどうするの?」と尋ねられ、「そしたら違うことをやればいいさ」と言ったが、あながち本当だ。作品を創作しているときというのは毎度「これが最後」と思って挑まなければ、消化不良に陥るし、挑む姿勢が問題点と次のアイデアを自分で見つけられる理由だろう。
今、手掛けている「with 10 years」「四季無常図」も「眠りの間にも魂は燃えている」も数年前の自分であれば創作することは出来なかった。藝術はデザインと違って「自分発信、他人仲介、自分帰結」であり、自分が問題点となり答えを見つけていくことを、やり続けることが出来るか、否か。そして、「自分=他人」ということがわかれば、その強度は増し、「他人=自分」を意識しない表面上の他人と会っていくことの方が消化不良に陥っていく。藝術家の孤独が増していくのはこういうときだが、原因はいつも阿呆らしい。

日々の中身

2011.5.3

日々が流れていく。その中には喜びも悲しみも含まれているが、無常にも日々は流れていく。それは夢も同じで、荘子の胡蝶の夢のように、夢の方が現実か、夢ではない方が現実か。融解していくのも日々の中。お前を守れなかった日、俺を守れなかった日、もう二度と会えない人…のはずが夢の現実では、その後に訪れることも知らずか起きずか他愛のない話をする。その後、夢ではない方の現実で後悔と無力さを思い出す。日を重ねるごとに強度が増していく。若さと異なるのは紛らわすことをしなくなったことだけだ。喜びも悲しみも積み重なっていく、それが日々。