Archive for 2010

安い言葉や物が溢れている

2010.2.15

 雨。五風十雨って言葉があることを知らないのかい、と空に投げ掛けたくなるほどの天候にため息をつく。

 作品は既にアトリエでは全貌も拝めない程の大きさになってしまって、予想しながら、ちら見しながら創作を続けている。

 それと並行して、ひょんなことからi-movieをいじることになったら、あら不思議、こんなにいじれるなんて。玩具を与えられた子どものように日々やれることが増えていく。カラコレだって出来るじゃあないですか、アフレコだって出来るじゃあないですか、これで3Dが作れたらなんてパワフルだと欲が出てくる。

 昨夜、TVを流していたら、「すぐに「わかりました」と言う人ほどダメなのよ」と話しているのが聞こえてきた。先日、本を読んでいると「本を読んでわかったつもりになるのが困る」というのが出てきた。それは、私が人と話をしていても度々思っていることだった。しかし、平易な言葉以外で話されないと「意味わかんない」と自己の解釈力の低さを棚上げしてしまうのが現代というものだろう。すれっからしになるのか、自己陶酔に走るのか、それとも何も見ないフリをするのか、いやいや、知恵を働かせようと考えるから成長速度に差が生まれるのだと自己を戒める。

 今まで様々な業種の人達と会ってきたが、結局、話をしていて有意義だと思えるのは「知恵を働かせている」かどうかだった。

悪い人間も何かしらのメリットがあって悪いことをしている。では、それは悪いことか?

2010.2.7

 山を登るようなことをしたかった。一歩一歩、一手一手、登っていき、完成と同時に頂から全てが見通せる作品だ。他の作品もその性質があるし、人生はそのようなものだけれども、今回はその要素を強めたかった。人々にとって富士山は当たり前に象徴的だし、樹海を抜けた後の空は圧倒的だ。

 既に自分の身体以上の大きさになってしまったので、持ち運びがほぼ出来ない。そして、まだまだ伸びていくし、まだまだ僕は成長していっている、だからこそ「生きるっていうことを象徴」したいのだと。

 「自分自身が生きていることが既に奇跡的なこと」と他者に言っても、当たり前過ぎてなかなか実感しないようだ。だから人間は、何かを見たり、何かを買ったり、習ったり、誰かと話をしたりと外部に刺激を求めてしまう。内省もせずに。しかも、世の中に蔓延しているのも内省もしないような人間が作り、利用するための物ばかりだ。

 裏を返せば、外部に求める人間が多いのならば、外部刺激(視覚)によるもので圧倒的な「生きるっていうことを象徴化」すればいいだけの話だ。人と会ってもこんな話ばかりをするのは、音声は外部刺激(聴覚)だからであり、人間は自分が良いと思ったことしか言えない(つまりは主観である)。悪いと思いながら言うのならば、それをすることで曲がりなりにも良い結果になるだろうと思うからであり、それが自分のために良い事か、他人のために良い事か、はたまた両者にとっての良い事かを感じて言う(たとえ反射的な速度であったり、負のメリットだったとしてもだ)。悪い人間も何かしらのメリットがあって悪いことをしている。では、それは悪いことか? 社会や他人にとっては悪いことであったとしても、どんなに短絡的であったり欠落しているように見えたとしても、それを行う人の中では必ず良い事を求めている(本人が意識していないほどの衝動的であったり、快楽的であったとしてもだ)。

 ただ、人間は考えることが出来る動物である、それを忘れてはいけない。

 そして、僕は人間という動物として生きる事(死ぬ事)を全うしたい。

 前回のつづき。

前回の続き

2010.2.1

 客観ということは完全にはない。むしろ何処まで行っても主観しかないと述べた方が適しているだろう。けれども、人はこういう事を聞くと、客観的な姿勢を持つ事を放棄していたり、融通が利かないと思ってしまうみたいだが、それは浅はかだ。

 人間には主観しかないために、客観的に考えたらどうだろうかと、最初の考えと異なる考えを導き出そうとする。即ち、これが客観的な姿勢を持とうと努力することである。たとえ他人の意見を聞いても、その意見から感じ、思い、考えるのは聞いている自分自身でしかなく、いかに客観的に努めようとしても客観ではない。

 再びこのようなことを聞くと、「じゃあ、皆、自分勝手に振る舞っているじゃん」と分かった風な口をきく者がいるが、それもまだ足りていないだろう。先に挙げたように、結局、主観でしかないと理解した時に諦めるか、当初とは異なる考えについて考える事を努力するかが、浅はかな者と、知恵のある者との違いである。

 これはまた藝術についても同じ事が言える。

 「結局、主観じゃん」と知った風な口をきき、悟りを開いたかのような風体を見せ、つまらなく、汚く、「だから何?」と言われてしまう作品を排出し続けてきた現代美術以降、人々が「藝術って必要ないじゃん」と言ってしまうのも納得である。藝術は本来、作品を媒体にして普遍的な美を追究する領域だった。哲学も宗教も普遍的という点では同様である。では、普遍的とはどういうことだろうか? それは、全ての人と向き合うということであり、全ての生物、全ての存在と向き合うことだ。全てなのだから、現在生きているもの、既に死んでいるもの、これから生まれるものと向き合うことである。それ故、現在67億の人口があったとしても、それだけではない。何那由他、何無量大数かもわからない。とにかく全てであり、その全てには自分自身をも含まれている。

 この全てと向き合うことを想像した時に興奮しない、もしくは想像出来ないのならば、君は藝術には向かないだろう。例えば、全てが敵であったとしよう。圧倒的な大自然と対峙した時のように、僕は笑ってしまいたくなる。そして、澄んだ気持ちで「じゃあ、やり合おうよ」ということしか思い浮かばないのだ。挑戦することしか思い浮かばないとも言っても良いだろう。とにかく、そんな数(?)なのだから科学の粋が通用するはずがないのは容易に想像できるだろう。弾を装填している間にやられてしまう。つまり、この身ひとつ、この拳ひとつしかなくなってしまうのだ。同様に、勝ち負けなんて気にしている余裕があるわけがないのも想像に難しくないだろう。つまり、今のこの瞬間しかなくなってしまうのだ。

 ほらね、いつも言っていることと辻褄が合っているだろう?

 自分しかいないと本当に理解した者は、他者についても考えようとするし、一生懸命に生きている。そして君が、そのように生きたいのならば、先ずは自分自身、主観について考えることから始めるしかない。

 「自分の本当にやりたいことって何だ?」
 「そもそも、自分って何だ?」
 「自分自分って自分という人間や意識は存在しているのか?」

 など自分の存在を揺るがすところまで考えるようになれば、媒体に執着したり、領域に執着したりすることはせず、自分のやるべきことが自ずと見つかるものだ。それが自分自身への本質であり、本質ということは真理である。真理ということは普遍的である。この文章は、文章であるということは言葉である。その言葉自身に何か、お酒や雑貨なんかの物品は関わっていないし、1円も費用がかかっていない。

 つまり、0円で人間は考えることが出来るし、変わることが出来るのだ。

本当にやりたいことをやる覚悟を持てば誠実になる

2010.1.31

 先日、結婚式に出席していた。披露宴にも出席していたが、一貫して、「エグチマサル」表記であった。少し関わらせて頂いたからという理由もあるし、新郎新婦が話の分かる人達という理由もあるが、一番の理由は「覚悟」である。

 こんな表記で出席していると「調子にのって・・・」と悪く思われる可能性が全くないとも言えない。しかし、藝術業とは縁のない人達と話をしても「普段何をしているか」という事は必ず尋ねられ、そうすると軽くだとしても必ず藝術についての話もすることになる。現代日本における一般人のほとんどは藝術業とは無縁であり、「藝術って必要ないじゃん」などと思われているのもわかっている。だからこそ、取り繕ってセールスするのではなく、真摯に自分のしていること、考えていることを話すことになる。

 すると不思議な事に、カタカナ表記であることを訝しく思った人達も、その名前を名乗っている者への評価を好転してくれたりし、そしてその時には私がどんな表記で名乗っていようなどと気にしなくなっているのである。

 つまり、最終的に人が他人に抱く印象というのは、その人の名前ではなくて、その人がどんな言葉を話しているかなのだ。加えて、美術家であるのならば、関わった造形物がなければ真の信頼を得る事はない。ちなみに、恥じる事はなく、私はこのことを親族にもし続けている。

 最後に、私が一般の人々の前にも藝術家として現れるのは、藝術が普遍的な美を追究する領域であり、全ての人々と向き合うということであり、それをするということを、私が本当にやりたいからだ(「やりたいこと」と「やるべきこと」については以前にも書いたのでそちらを参照して頂きたい。「本当にやりたいことは、その人のやるべきことになっている」このことは再び後日に)。

映画から考える

2010.1.26

 映画「ミリオンズ」を観ていた。「子ども達に堂々と見せられる映画を作りたかった」とダニー・ボイル監督の弁だけあって、「善いことって何?」ということに始終し、お金の出所に戸惑いながらも善悪と向き合い進んでいく主人公の物語。単なるファンタジーとして捉えられたり、「お金持ちならあぁいう終り方のようなことをするかもしれないけれど」と思いがちだけれども、実はそうではない。

 全ての善悪というのは本人の中にあるものであり、映画に出てくるような、もしくは学校を建てたりとニュースに取り上げられるようなことだけを指すのではない。例えば先日、K駅に向かう電車の中で、お菓子の袋の切れ端が落ちていた。それは、一直線に切り取られた濃い赤色のゴミだったので、白っぽい床には当然に目立っていた。僕はそれを拾い、K駅から友人の家に向かう途中にあったコンビニのゴミ箱にそれを捨てた。僕が拾わずにあのまま電車の中に放置していても掃除屋さんが掃除をしてくれていただろうし、もしくは別の誰かが拾っていたかもしれない。けれども大事なのはそこではない。

 自分がそれをするかしないかだ。何故なら、事の善悪というのは他の何者かに因って規定されるものではなく、自分自身に因って生じてくるものだからだ。「他の誰かがする」という者は、絶対にしない。他の要因(国家、法律、他人)に求める人は、法律と道徳を混同していたり、道徳と道理を同じものだと思っていたりする。それ故、理解したような気になってしまう。社会を理解したように思ってしまう。悪いことが起きると社会や会社、他人のせいにしてしまう。義務や責任という言葉を他者に向け、権利という言葉を自分のために使用するが、他者に向けられた義務や責任という言葉に因って、自己にも義務や責任が生じてしまったことに気がつかないような人達である。それもこれも「誰かがする」という善い行いの放棄から始まっている。それは即ち、「考える」という人間の最大の特徴的行為を放棄していることにもなっている。善悪の生じる源が自己に起因するものならば、その自分自身は「何が善」で「何が悪」なのか、そして「善とは何か」、「悪とは何か」について考えなければ行いに転じることは出来ないのだから、考えることが必要になってくるのだ。

 こういうことというのは僕の関わる作品や文章にも表れている。人間はどんな劣悪な環境でも成長することが出来る。けれども、発信する側に立つ以上、手放しで成長を促す、もしくは特徴を伸ばす発信をする必要があると考えている。整然としたものだったら整然さを、清廉さであれば清廉さを、激しさであれば激しさを表す必要があると考えており、敢えて反面教師的に発信する必要はないと考えている。むしろ、反面教師的に見せようとしている作品群や人の振る舞いは、見ていても純度が低い場合がほとんどである。純度を高めることを望めば望むほど、そのものの性質を見極めようと洞察力を高めようとするし、その性質を発揮させながら、どうすればそれに関わった人達にとっても最善となり得るのかと考えることをするものだ。

 だからこそ、手放しで善いものというのを僕は追究しているのだ。