悪い人間も何かしらのメリットがあって悪いことをしている。では、それは悪いことか?

2010.2.7日々のこと

 山を登るようなことをしたかった。一歩一歩、一手一手、登っていき、完成と同時に頂から全てが見通せる作品だ。他の作品もその性質があるし、人生はそのようなものだけれども、今回はその要素を強めたかった。人々にとって富士山は当たり前に象徴的だし、樹海を抜けた後の空は圧倒的だ。

 既に自分の身体以上の大きさになってしまったので、持ち運びがほぼ出来ない。そして、まだまだ伸びていくし、まだまだ僕は成長していっている、だからこそ「生きるっていうことを象徴」したいのだと。

 「自分自身が生きていることが既に奇跡的なこと」と他者に言っても、当たり前過ぎてなかなか実感しないようだ。だから人間は、何かを見たり、何かを買ったり、習ったり、誰かと話をしたりと外部に刺激を求めてしまう。内省もせずに。しかも、世の中に蔓延しているのも内省もしないような人間が作り、利用するための物ばかりだ。

 裏を返せば、外部に求める人間が多いのならば、外部刺激(視覚)によるもので圧倒的な「生きるっていうことを象徴化」すればいいだけの話だ。人と会ってもこんな話ばかりをするのは、音声は外部刺激(聴覚)だからであり、人間は自分が良いと思ったことしか言えない(つまりは主観である)。悪いと思いながら言うのならば、それをすることで曲がりなりにも良い結果になるだろうと思うからであり、それが自分のために良い事か、他人のために良い事か、はたまた両者にとっての良い事かを感じて言う(たとえ反射的な速度であったり、負のメリットだったとしてもだ)。悪い人間も何かしらのメリットがあって悪いことをしている。では、それは悪いことか? 社会や他人にとっては悪いことであったとしても、どんなに短絡的であったり欠落しているように見えたとしても、それを行う人の中では必ず良い事を求めている(本人が意識していないほどの衝動的であったり、快楽的であったとしてもだ)。

 ただ、人間は考えることが出来る動物である、それを忘れてはいけない。

 そして、僕は人間という動物として生きる事(死ぬ事)を全うしたい。

 前回のつづき。

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