Archive for 2009.9

未来へ

2009.9.11

 元木さんの展示に行ってから、神楽坂のアユミギャラリーへ。昨年度の新世紀、TG大大学院修了制作展と見続けたが、今回のが一番しっくりときた。神楽坂に降り立ったのはおそらく初めてで、展示を観た後に散歩をしていて「いい街だな」と感じた。何故だろうか?

 今月末から始まる、「現代写真倶楽部」の展示のDMを頂きました。今回は数が少ないので送って欲しい方は絶対にメールを下さい(先着限定15枚なので宛名も手書きで送っちゃうぞ)。パッと見、よくわからないけれどもカッコイイDMです。そして、このDMには共同制作の過程が載っているのですが、これを見ていて個人制作の作品が「これで良い」と確信しました。タイトルは「未来への方舟」です(たぶん)。展示の詳細は http://eguchimasaru.com/news0909.html に書いてあります。

 御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

 エグチマサル

追記2

2009.9.8

 「何になりたいですか?」という質問の答えが見つかったような気がします。

 「何になりたいか?」というのは「何として残りたいか?」ということとして捉えると、「あいつは藝術だったよ」と死んだ時に言われたら良いな、と思いました。「写真」という単語を用いた仰々しい写真集や映画のタイトルがありますが、「写真」というジャンルは未だ金字塔を建てていません。だからこそ、それらの写真集や映画が良作だとしても広く世の中に広がっていくこともなく、ただただ偏狭な人達の愛玩にしかなっていないのです。だから「写真」という言葉はまだ使えないのと(それを変えるために「写真家」を名乗っているのですが)、美術写真というのを大本まで戻ると藝術の領域なので、死んだ後はそう呼ばれたいです。同様に、「○○家」などの職業名も人という物質を特定してしまうもので、藝術も真理を求め、広く人々に伝え、気付かせていく領域なので、「藝術それ自体」として言われたら良いな、と。「○○家」などとして残ってしまうと人として特定されて私が残ってしまうけれど、時代も文化も超えるもの(性質、考え)が真理であって、藝術なのだから、そうありたいです。

 ん?質問の回答として間違ってる?まぁまぁ、そう言わずに。

追記

2009.9.7

 今期最後のワークショップも無事に(?)終わり、残すは個人作品と搬入になりました。

 そして、昨夜は作業の前に明るい部屋メンバー全員vsエグチマサルの話だったのですが、毎回、訊かれると困る質問ナンバーワンの質問も出て来てしまい、結果、「これで良かったのか?」と疑問が残るものになってしまいました。その「困る質問」というのは、「好きな作家は誰ですか?」などの好きなものや人を尋ねられる質問です。時間との兼ね合いもあるのですが、全て出せたということが一度もなく、終ってから「あの人(あれ)を挙げてない!」と気付くことしかないのです(昨日は、西洋古典絵画に寄り過ぎていましたね)。そして僕の場合、「好きな人」というのはほとんどいなく、「良い仕事をしている人を良い」と思うだけなので、「嫌いだけれども、良い仕事をしている」と思ったら、それが全てだと思うのです。と、言う訳で、ちょっと挙げていこうと思います(敬称略ですが、怒らないで下さい)。

 スワヴォルミ・ルミャック、ジョエル・ピーター・ウィトキン、アントワン・ダガタ、全光榮、高木正勝、マン・レイ、M・デュシャン、ルネサンス期の藝術家たち、印象派の画家たち、ブラック、パウル・クレー、ゲルハルト・リヒター、俵屋宗達、尾形光琳、本阿弥光悦、池田晶子、佐々木健一、中村桂子、原研哉、紀里谷和明、ジャクソン・ポロック、池内了、Blankey Jet City(解散後の活動も含まれます)、Thee Michelle Gun Elephant(解散後の活動も含まれます)、BOOM BOOM SATELLITES、デヴィット・ボウイ、菊池成孔、菅野よう子、ダニー・ボイル、S・キューブリック、夏目漱石、芥川龍之介、重松清、いしいしんじ、古川日出男、湯本香樹実、池田進吾、ヴォルフガング・ティルマンス、諏訪敦、サルバドール・ダリ、杉本博司、細江英公、円山応挙、ルドン、ロダン、ドヴォルザーク、ヘーゲル、ウィリアム・エグルストン、上田義彦、ダミアン・ハースト、マシュー・バニー・・・ざっと挙げてみましたが、これでも足らない気がします(ジャンルが狭いし、若手が挙がっていないし)。そして、マンガや作品だけでも挙げていったら大変なことになります。

 昨日はマンガを使ったハウツーを言いましたが、あれは絶対であるとともに、どんな写真学校でも美大、芸大でもおそらく教わらない方法だと思います。そして、やるかやらないかの少しずつの積み重ねが、大きな差になります(CMを使ったハウツーもありますが、それは日を改めて)。例えば、「東大・京大で一番読まれた本」として最近話題の『思考の整理学』ですが、僕の住んでいる所は私立大学としてトップに挙がる大学があり、その近くの本屋ではやはり売り切れていました。その本は、やはりハウツーになってしまっていて、各セクションで大切なことは一行ぐらいしか書かれていません。しかし、一行ぐらいだとしても大切なことが書かれており、尚且つ、「買う」、「読む」、「試してみる」ということをする者と、そうではない者、そのちょっとの違いの積み重ねが大きな差となって表れてきます。在学中からコンペに出させてもらったり、小さい賞で出した後でも必ず知らない人達から反応がくるのは、その小さな積み重ねによって表れた差です(話を聞くと、コンペに通っても知らない人から反応がないことの方が多いようです)。そして、全く関係のない領域にいる人達からも反応があるというのも、同じことが言えます。

 そして、小さい積み重ねというのも、「ただやってみる」ことが重要なのではなく、「考えてやってみる」ということが重要となります。ワークショップを通して僕が最後に言えるのはやはりこのことです、「考えて行動する」。

 最後まで、来てくれた人達、依頼してくれた明るい部屋の方々、告知を手伝ってくれた友人たち、ホームページを作ってくれたせっきーね、心から厚く御礼を申し上げます。ありがとうございます。良い展示にしましょうね。

 (話の中で三木さんから『バガボンド』のことが挙がりましたが、あのタイミングで挙がるということは何かあったのかなぁと思いつつ、時間の都合上、そのままの流れで話を進めてしまいました。もしも他に聞きたいことがあったのならとても申し訳ないことをしたなと帰り道に考えていました。もしも何かあったら、また後日に。たぶん11日に明るい部屋→アユミギャラリーの順で行くと思います)

昨日から度々、ベランダにニャーゴがやってくる(放置)。

2009.9.6

 昨日午前中、念入りに掃除をしていたせいで鼻水が止まらなくなり、引き続き本日も鼻水が止まらない。鼻水と言えば、ネギや生姜などが有効と言われているが、本日の主役はネギだ。

 昨日のお昼ご飯で肉味噌を作ろうと思い立ち、八百屋で食材を買って来てネギを取り出し、無防備な姿の「そいつ」を眺める(ちなみに、僕は関東人なので、「ネギ」と言った場合は「白ネギ」のことだ。別段、悪気がある訳ではないのであしからず)。独特の辛みと匂いが苦手な人もいるが、これがネギの醍醐味と言う人もいる。そうかと言えば、炒め煮や鍋物に入れれば甘みととろみが現れはじめ、それが苦手だと言う人もいれば、それが好きだと言う人もいる。扱い方の手軽さと相反して、生でも火を通しても存在感を持ち続ける「ネギ」。どんなコミュニティ(料理)の中にそれとなく入っても、いつの間にか存在感を放っているその姿は、同じ生命体として師匠に値すると言っても過言ではない。

 話は変わり、先に挙げた東日本の「白ネギ」と西日本の「青ネギ」、これらに言及していこうと思う。育て方の違いで、白い部分が生まれてくるらしいが、土をかけることで葉の部分を隠し、食すときにその姿を現した方が「ネギ」の特徴が高まるという育て方は、どこか人間のそれと似ているように思われる。性質を目に見えないように隠し、溜め込み続けることで、それが顕現した時の爆発力は、目に見える形で出し続けているものの力とは比べ物にならない。現代での悪い例として、ストレスを適度に発散している人よりも、ストレスを溜め込み続けた人の方が、より深刻な状況となることが挙げられる。しかし、ここで勘違いしてはいけないのが、目に見えない形だとしても「続けている」ということであり、作品を創っていない者や、作品と関わることをしていない者が、突然、(静的な作品だとしても)爆発力を持った作品を創ることが出来ないことと同様なのである。それ故、作品を創っていない時であったとしても、作品と関わらせて行動し、関係のない(ように思われている)日常を作品と結びつけて緊張感を持って過ごすことが、「目に見えない形で続ける」ということになるのであり、「白ネギ」と同様に、ネギの特徴が強まるのである。

何を休めというのか?

2009.9.4

個展終ってもあれやー、これやー、で動いてましたが、これから休みに入ろうと思います(明日まで・・・短い)。

夏休みもなかったのにね・・・暗い。

けれども、節制の生活や体を鍛えるというのはやはり精神性に還ってくるから面白い。