Archive for 2009

繋げられるものを残す

2009.11.6

 物があまり必要ない。と、言うか、物を無くす生活をしようかと思う。物を残すことを考えるとして、50億年後、地球が亡くなる日までその物が残ったとしよう。その日には人類や生物はいないかもしれないし、地球は既に使い捨てられているかもしれない、しかし、仮にその日を迎えなけれなならない人類がいたとしたら? だったら、単に物が残っているというよりも、その日を迎えるのを恐れない人々になっていた方が良いとは思わないだろうか?

 物は朽ちるし、地球が亡くなれば物も無くなる。けれども、人の考えは繋げていく事ができる。どうやら縄文人と現代人とに人間的な本質に大差はないようであり、それにもかかわらず、人間は文化を発展させてきた。そして、色褪せたり、翻訳されたりと表皮が変わった物を通して、ずうっと昔の人達の考えを知り、私たちは再び考えることが出来る。それが「繋がる」ということであり、人間が人間らしく生きることだ。これも1つの考え方だし、全く異なる考え方を持つ人もいるだろう。しかし、単に「残す」ことに終始してしまえば、人に繋げる事は難しいだろう。

 人が人として生きる上で正しい事をするように気付ける物を残したいし、そうしてきたつもりだ。

 地球が亡くなる日のことを考えることを馬鹿馬鹿しいと笑うのも、1つの考え方だろう。けれども、俺は考えている。それを言う事で、他の誰かが勇気を持てるのなら、俺は何度でも何処でも言うし、動くよ。

結局、生きる事よりも生き方が大事だ

2009.11.4

 ディレクターさんの集まりみたいな場所に連れて行ってもらい、色々な人を紹介してもらい、よく話した。

 至る所で様々なジャンルの作家さんと出会い、出会う度に、よく話す。

 違う職種や年代の異なる人達と出会い、その度にも、よく話す。

 話すときは大抵、人間の生き方に関わることであったり、自分の(相手の)そういうことだったり、やっていることだったり、藝術や写真や依頼業のことだったりと多岐に渡るが、最終的には「人間の生き方に関わること」の話になっている。これを続けていたら、その内に、真っ白な灰になってそうな感じもするが、そうなったらそうなっただと思っている。「このホームページ以外に(他のジャンルのことでも検索に引っかかるように)エグチマサル相談室みたいなホームページを作ってみたら?」と提案されるが、そういうの必要? う〜ん、blogやdocumentじゃ足らないのかなぁ。

 美味しい韓国海苔やハワイ土産のチョコレートや音楽を頂きました。こうやって日々を生きています。ありがとうございます。

簡易紹介

2009.11.1

私の事を紹介

 私は、全ての人間は幸せになる権利を持っていると考えています。そのことをやろうとすると、藝術・哲学・宗教の領域になるでしょう(わからない人は辞書を引いて下さい)。そして、作品でそれをやろうとするから、私は藝術家を名乗り、写真媒体を用いているために写真家を名乗っているに過ぎません(言葉でそれをやれば、私は哲学家になるでしょう)。

 醜いもの(不快感情)から、普遍的な美を求めようとすると、観た人(体験した人)にかかる負荷はその人を死に至らしめるほどになるか、日常生活が送れないほどになってしまいます。そして、歴史的作品や建造物も醜さから美を放っているとは到底考えられません。なので、朝日が昇るときや満天の星空を観た時に人々が感動するような、そんな作品を私は創っていきたいのです。

 それらのことは、日常生活にも現れています。藝術家(アーティスト)だから社会から逸脱するような振る舞いをしていいとは思っていませんし、これからの子どもたちが藝術を志した時に、作品のことだけで悩めるような時代になるように、私たちは藝術家も社会人として振る舞うべきだと考えています。

 そして、どの職業でもそうですが、その職に身を置く者ならば、その領域の可能性を広げるように努めるべきだと考えています。そのためには過去の事を知り、先達のしてきた事を知り、その良いところは伸ばし、悪いところは直すことが、未知の可能性を広げていくことに繋がります。一見すると写真作品に見えないかもしれない作品を写真作品として発表していることは、各作品の資料をお読み頂ければご理解可能と思われます。これらの活動を通して、写真藝術の可能性が広がって欲しいし、鑑賞者が感動するような作品を創っていく事が私のすることです。

 最期まで読んで頂き、誠にありがとうございます。

エグチマサル

※ 活動紹介用の簡易ファイルを渡すために簡易紹介文を書いていたら、「ここに載せてもいいかもね」と思い、載せてみました。

善き1枚

2009.10.29

 朝から創作をしていて、昨日作られた1枚にランドスケープ(風景)があるのだけれども、スライドショーにして流れを確認していると、「その景色の中で最期の時を向かえられたらいいのにな」と思った。

 写真の中に入るというか、全方位型の映像というか、でもそれは別の作品であったり、観る者の能力によって頭の中で創ることができる景色だ。自分の魂が汚れないでいるためにも自分のために生きていると言えるだろう。しかし、自分一人で生きていたり、自分を取り巻く環境さえもそうであるのならば、僕は作品を創る必要性がない。やはり、作品を創るということには他者への愛がなければできないことだ。「繋がろうとする必要はない、繋がっているのだから」、「恐れる必要はない、同じなのだから」、全てのものを愛して観察すれば創造性は膨らんでいく。それを具現化していくのは他者への愛でしかない。裏を返せば、憎しみでもそれらができるということだ。しかし思うのだ、「誰も憎む必要がない」と。

循環

2009.10.27

 いつもお世話になっている友人の搬入を手伝い、そのまま展示風景の撮影と店舗の撮影をさせていただきました。その後、ビールとドイツパン(プレーン)を頼んだらパンをおつまみにしてくれました。

 再びその後、専門学校時代の先生の展示に行ったら美味しいワインをご馳走してもらい、オーナーの方をご紹介頂いて、ポートフォリオを置かせてもらう事になりました。

 いつも思う事だが、「自分は自分、他人は他人」ということを結論づけるのは1つの考えとして、基本的には今まで培ってきた些細なことが集積となって作品が創れているし、生かされていると考えている。だからこそ、依頼された時や話す機会を得させて頂いた時は、全身全霊を持って一生懸命にその仕事を全うしようと努力できる。その結果が、再び誰かが誰かを紹介してくれたり、機会を作ってくれたりして、僕の活動や生活は支えられているという循環が生じている。「自分は自分、他人は他人」ということを貫徹したいのであれば、人が来ないような僻地に住居を構えて、自給自足の生活を送るしかないだろう。結局、「純度を高めようとしている人間」か「中途半端なことをしている人間」かのどちらかしかいないのではないだろうか?

※ 大津有加里
  企画展「WONDERサイダーDAUGHTER」
  +cafe Flug
  http://www.cafe-flug.jp

※ 森田衣起
  企画展「森田衣起展」
  Art Center Ongoing
  http://www.ongoing.jp
(活動紹介用のファイルを置かせて頂いています。なるべく早めに簡易バージョンに変更する予定なので、お近くにお越しの際は、是非、ご覧下さい)