Archive for 2018.6

よく分からないけれど誘ってみたい人。

2018.6.10

昨日、自分のことを「普通の人」と書いた。
はじめは「そんな人」と書いていたのを、わざわざ書き直したのです。
 
そこで、「強い」って何だろうと改めて考えてみました。
格闘技などをしていたら、勝つことが強さの証になるでしょう。
範馬勇次郎のようなね。
 
けれども実際の日常では、「頼れる」ことが「強さ」にもなります。
この場合の強さの中身は、色々あります。
技術が頼れる、資金を頼れる、悩みを解消するのに頼れるとか。
些細なところではお使いを頼める、留守番を頼める、とか。
 
今の時代、クリエイティブな仕事をする人に求められることが、スキルだったり、企画力だったりします。
しかも、説明可能なものを求められるから、結局、企画力といってもスキルです。
手前味噌ながら、僕もこの辺りの部分の能力は高いと思いますが、これはこれで、愚直に数をこなしてるだけでも身につくものです。
僕も狭い意味のスキルを軽々しくみていないつもりですが、これだけではけっして誇れるものでもありません。
 
たとえば、何か事を起こそうとしたら、それぞれの得意分野が集まるでしょう。 
でもね、これってつまらないんですよ。
スキルで集められてるから。
だから同じスキルをもって、より効率よく、安い値段で動いてくれる人がいたら、そっちを採用しちゃう関係です。
 
これと逆の関係で、かつ、頼られる強さの極みって、「なんかよく分からないけれど誘ってみたい」、ということです。
事を起こすのに、もう必要な役割はないけれど、あいつを誘ったら面白いだろーなー、と思ってもらったり。
こう思う前に、「とりあえず誘いたい!」、っていうのが最強ですよね。
でも、実は子どもの頃の、「友達を遊びに誘う」感覚と一緒なんですよね。
こんな人になれたらいいなー、と思いつつ、誘われることも増えてきているのは、ちょっとずつ近づいているのかもしれませんね。

信任とは「餅は餅屋」だった。

2018.6.9

企業とは異なり、法人である会社に必要不可欠な「信任」について調べていると、いつも話している「餅は餅屋」と同じ考えだと、わかった。
自己利益を追求する性質の「契約」とは異なり、契約に記載されない職業倫理の上で成り立つ「信任」。
 
専門的な技術とその知識の大きな差がある専門家(依頼される側)と依頼主。
この依頼関係を専門家の恣意性による実験材料にされるか、依頼主の利益になるように動くかは、依頼を受ける専門家の倫理観に委ねられる。
 
なぜなら、依頼主は専門的な技術と知識がないから。
そのため、依頼主は、専門家を信じて、任せることになる。
ここで信任が効果的に働くためには、専門家を信任したと、依頼主は分かっていなければならない。
 
これが難しい。
 
信任後、依頼主の行動によって、職業倫理の高い専門家ほど、行動が変わってくる。
「バカにつける薬はない」と専門家に思われる行動を依頼主がとった場合、この関係性は終わる。
 
専門的な知識や技術を要する行動に、これらがわからない素人が質問ではなく、意見をしたら、どう思われるだろうか。
意見が続いたら、どのような変化が起きるだろうか。
 
初めは、分からない相手を諭す(叱る・説明する)だろう。
しかし、回を重ねるにつれて、意見への処理に疑いと愚かさを相手に抱くものだ。
これが、人間というもの。
相手を信じて、任せるということを、依頼人が分かっていないと、こういう事態に陥る。
 
「餅は餅屋」。
 
高度な専門家は、職業倫理を持っていなければ信任を受けられないし、依頼人は、信任ができなければ、高度な専門家に依頼を受けてもらえない。
良い仕事になるというのは、もちつもたれつの関係なんだ。

減らしてくれる。

2018.6.8

ポジティブの上乗せよりも、ネガティヴを減らしてくれることの方が、人は喜ぶ。
これ、仕事を始めた頃に気づいたことです。
 
ポジティブの上乗せの代名詞は「こだわり」「究極の」「世界最高の」などです。
巷の広告で溢れてる内容です。
仰々しいビジュアルと併せて、「俺はすごい!」と自分たちで喧伝している内容です。
関係のない人たちに、初対面の人たちに、大声で叫んでいます。
 
もしも人であったら、「え、ひくわー」ってなるでしょう。
あまりにも度が過ぎていたら、おかしくなるけどね。
そういう芸風もありますね。
でも、一般人ではそこまでやらない。
怖いし、笑わせる必要がないと思っているから。
今の時代だと、捕まってしまうのかな。
 
企業に話を戻すと、今の人たちが欲しいのは、「モヤモヤしている心地」の解消だ。
不要なもの、気疲れ、不仲、不健康など、程度の差はあれ、モヤモヤしている心地を解消してくれる人やモノがあると嬉しいものだ。
 
そして、「モヤモヤしている心地」というように、この中身はとても些細なものになってきている。
元は大きな分類だったものが、小さな分類になってきている。
悩み相談が多くなっているのも、こういうことの現れなんだろうな。

「ちゃんと」への愛着。

2018.6.7

法人化をするかしないかを決めるにあたり、経済学の本を読んでいます。
法律について調べたり、人に相談しにいったり、「法人会社」についての知識を「ちゃんと」得ようとしています。
 
クリエイティブという仕事をしていると、クライアント企業をはじめとした業界の決算報告書や四季報、行政発行の資料、新聞などは目を通すようにしているし、会社というものについての知識を持っていましたが、会社についての知識を「ちゃんと」整理して持とうとしています。
 
「ちゃんと」という言葉、ぼくは最近になって、ようやく好むようになってきました。
昔は「『ちゃんと』ってなんだよ」と、生意気に反発もしました。
「ちゃんと」としか言えないときは、とてももどかしく思いました。
 
でも、年齢を重ねると、「ちゃんと」という言葉が持つ、微妙な味わいがわかってきます。
「ちゃんと」でしか表現できない、幅があることに気がつきました。
 
すると、今まではネガティブな気持ちを抱いていたのが、ここにしかない愛着としてポジティブな気持ちになってくるのです。
しかも、ネガティブに感じていた時代もわかった上での、愛着なのです。
 
酸いも甘いも知る、というのは年齢を重ねないと、やはりわからないものなのかもしれません。
「しっかり」や「なにくそ」も似たものがありますねー。

友達に届けることば。

2018.6.6

2007年からブログを書いていますが、その中でも「別のブログサービスを使うか」や「広告を載せるか」や「有料コンテンツにするか」など、色々な検討があります。
 
その中で唯一採用したのは、「読みやすいデザインにする」と「画像も投稿できるようにする」のふたつです。
たった、ふたつ。
 
ぼくも人間なので、どうやったら稼げるかを考えるのですが、稼げるシステムがあるブログって、読みにくいのです。
狙って行う「読みにくい読み物」ではないのです。
投げ銭システムがあるサービスも、「おすすめ記事」を宣伝したりと、「なんとなしに立ち寄る感」が減ってしまう。
 
何かをおすすめするのも、宣伝ではなく、友人との雑談で「あ、そうだ。あれいいよ」という感覚を残しておきたい。
「えぐっちゃん、いいの知ってるなー」と言われたら、「そうだろー」と鼻高々になる程度。
ここのブログで何かをおすすめしているときも、お金はもらっていないです。
 
だからかもしれませんが、「ブログに載ってた、あの本買ったよ」と言われることも、けっこう多いです。
その度に、「よかったでしょー」と得意げになれる程度なんですけどね。
友達に届けるように。
こういう言葉で書いています。