Archive for 2018.6

ヒトの特徴。

2018.6.25

変わろうとしているときほど、痛みを感じるものです。
成長痛のように。
社会が変わろうとしているのは、もうずぅっと長いことつづいています。
これと同時に、社会の痛みもずぅっと、みんな感じているのではないだろうか。
 
いやね、以前、広告がつまらなくなったという年長者のことと、説明が奪うものについて書いたけれど、これと同時に、むやみやたらと威張る年功序列もなくなってきているし、そうかと言えば、彼らと接点を持たない若者はスキルが低いまま役職だけ高くなっちゃうことも起きているな、と思った次第なんです。
 
一年ほど前、当時流行りのCDO(チーフデザインオフィサー:事業会社にいるデザイン部門の経営層)とお会いしたことがありました。
ぼくと同じぐらいの年齢でしょうか。
苦労されているのは分かるけれど、力のあるデザイン事務所のデザイナーよりも、力がないのは明白だったのです。
 
つまり、苦労の結果が違うモノになっている。
その上で、肩書きは立派になっている。
そんな現場が数多くあるでしょう。
特に学生起業家たちの会社や、それと似たような若い人たちの会社がチヤホヤされているけれど、彼らが理想とする働きぶりを聞くと、ヒトよりも機械の方が優秀のようにも思えるのです。
 
もちろん、すでに機械の方が優れている部分はありますし、クリエイティブといわれる仕事も、いつかは機械の方が優れるときがくるでしょう。
けれども、ヒトの特徴というのは、ぐにゅぐにゅ、ぐちゃぐちゃしている何とも言えない部分を持ちながら、仕事ができるところでもあります。
そして、こういった特徴が、ヒトとヒトの仕事を成り立たせてきて、国をつくってきたし、国と国の関係も成り立たせてきたはずです。
少なくとも、ぼくはそういう現場を見てきました。
そして、肩書きだけ立派になるヒトビトを見ていると、じいちゃんやおっちゃんよりも、色々なところが劣っているのです。
 
なんかね、リタイアしたじいちゃんや、定年間近のおっちゃん達が、蓄積した色んなモノを、のらりくらりと受け継いでいくのも、若者に必要なことだと思います。
おっちゃんが弱々しくても困りますが、威張り散らされても困りもんですけどね。
「ちょうどいい」を学ぶ機会を、おっちゃんの側にも、若者の側にも、どうやったら吸収させることができるのだろうか。

学ぶコツ。

2018.6.24

ヒトに話しながら気づいたことがありました。
「学ぶのにもコツがいる」
いやね、もう色んなところで話されている感もあるでしょうが、日々、色々なヒトにデザインやクリエイティブの話をしていて、学ぶヒトによって、学ぶ吸収率ってかなり違うんです。
 
教え方のコツというのは、「教える内容の根幹は変えずに、教え方や話し方を相手によって変える」です。
この中身は長くなるので、別の機会にしますが、「教える関係」は「学ぶ関係」でもあるなと。
ヒトが何かを教えているとき、何かを教わっている(学んでいる)ヒトがいるのです。
 
コミュニケーションというのは、ひとりのヒトだけでは成立しません。
相手がいないとコミュニケーションは成立しません。
つまり、コミュニケーションが上手くいくのも、上手くいかないのも、双方に責任があるということです。
 
これは、教える関係(学ぶ関係)でも同じだなと。
上手く学べないのは、教えるヒトにのみ責任があるのではなく、学ぶヒトにも責任があります。
それは、教えるコツを発揮していても、学ぶヒトによって、差が生まれてしまうことでもいえます。
 
じゃあ、「上手く学ぶコツってなんなのよ」ってことですね。
はい、それをいまからいいます。
 
「質問はするが、意見はしない」です。
 
ただそれだけです。
質問をしなければ、教わったことを本当に学んで身につけているのか、教えているヒトはわからないし、何がわからないのか、知る手段が減ります。
それは、教えるコツを発揮しずらくなるということです。
学ぶヒトは質問をすることで、学習意欲も湧き、動機付けがさらにはたらくでしょう。
どちらにせよ、質問は、教える関係において必須のものです。
 
けれども、「意見をする」は違います。
学んだ後に、自分の考えを持つことは、重要です。
さらに見聞をつけるために、多様な考えに触れることも大切です。
 
しかし、「学んでいる現場」において、いま学んでいることを吸収するためには、他がどうあろうとも関係はないのです。
むしろ、教えてくれるヒトに対して、違う教えを意見するのだから、教えてくれるヒトの教えではなく、いまこの場にいないヒトの考えを尊重していることになります。
これでは、いま教わっていることを学んで、自分のものにすることはできません。
少なくとも、教わることへの動機付けは低いでしょう。
動機付けが低いということは、やはり、学んだことの吸収率は下がるということです。
もしも、いまこの場にいないヒトの考えが、頭に浮かんだのなら、そのことを質問をすればいいのです。
そうすれば、教えてくれるヒトは、自分の考えと違うヒトの考えを関連づけたり、比較したりして教えてくれるはずです。
(これが教えるコツです)
 
もしも、専門的な技術や知識を、専門家から話を聞くときがきたら、思い出してみてください。
「質問はするが、意見はしない」
少なくとも、その現場では。
学ぶのにも、コツがいるってことです。

ごめんって気持ち。

2018.6.23

作物の手入れで、病気がちな葉や茎を落とすとき、やっぱり、気持ちいいものではありません。
「ごめん」って気持ちがジワっとでてきます。
いっぱいじゃなくて、ジワっと。
自然のコントロールはできず、「こういうもの」と認めるしかないけれど、手入れをするってことは、どこかで諦めがつかないんでしょう。
 
スイカやカボチャが実になりはじめるのは、とても嬉しいものです。
小さな実を触って落としてしまったときは、とても悔しく、悲しいものです。
ただ、そういうものなんです。
 
これを書いてから数日後の今日(昨日)。
畑に行ったら、先日の小さなスイカが黒ずんでいました。
他にも小さなスイカができていたので、黒ずみスイカはそのままにしておきました。
一瞬、切ろうかと思ったけれど、そのままに。
カボチャの葉っぱも、そのままにしました。
今日は、インゲンの収穫だけ。
色々とそのままにした日です。

良い塩梅のコミュニティ。

2018.6.22

この10年くらい、「コミュニティ」と色々なところで聞きます。
「コミュニティの時代」とか、「コミュティが大事だよ」ってことを色々聞きます。
 
んで、見渡してみると、60代以上のコミュニティは、良い塩梅に雰囲気が、コミュニティ特有のものになっている気がします。
50代以上からこの傾向が見られるけれど、40代までのコミュニティには、これが感じられないなと。
この良い塩梅の雰囲気のコミュニティというのは、組織とかチームとかも同じです。
なのでこれからは「集まり」と、まとめて言っちゃいますね。
 
なんで「50代以上の集まり」から雰囲気が良くなるのか。
眺めたり、話を聞きながら気づいたことがあります。
40代までの集まりには、それぞれの理想があって、これが集まりを良い塩梅にしていないことに気づきました。
それぞれが自分の理想を求めて、集まってしまっている。
でも、ヒトが集まっているのだから、自分の理想が薄れるのは当然。
予期せぬ化学反応も、自分の理想にプラスになるものだったら歓迎している。
 
つまり、40代までは「利害関係」で集まっているんですよね。
お互いに利害が一致するから集まっている。
これって、自己の利益を追求しているだけなんです。
だから、集まってくるヒトが好きってことじゃなくて、自己の利益を叶えてくれるヒトを求めて集まっているんだな。
 
こりゃあ、「契約」と「報酬」がないと動きませんわ。
そして、「あなたのために」おもしろい話をするんじゃなく、契約と報酬に基づいて話をするんだから、ユニークさもウィットもない。
だから、バラバラになっちゃうよね。
 
これは仕事も同じ。
「職業倫理」は「契約」のなかに記載できません。
だから、おかしな話だけれど、利害関係で仕事相手を選んじゃいけないのです。
これから出会うヒトは「友達になれるか」って基準で選んでいくとおもしろいだろうな。
(昔からその傾向はあったけど)
 
人が集まることを考えるとき、じいちゃんやばあちゃんから話を聞くのって、かなりおもしろいですね。

こういうときでも。

2018.6.21

昨日、「良いことがあったら、喜んでもいいはず」と書きました。
ワールドカップでの日本の勝利だとか、みんなで喜んでいいと思います。
こういうことまで、自粛されるようになってしまったら、つらさの矛先がおかしいことになるでしょう。
喜べるときは、喜ぼうぜ。
泣いても、いいんだし。
笑っても、いいんだし。
ねぎらっても、いいんだし。
だから、喜べるときは、喜ぼうぜ。