Archive for 2015.9

亡くなった人たちのお蔭。

2015.9.19

良い意味でも悪い意味でも多方面でデザインが語られるようになったが、その中で「デザインとアートは違う」という話が出てくることがある。そして、その中で語られる印象というのは、「デザイン=依頼者がいるプロフェッショナルな仕事」「アート=自分の中で完結する仕事でも趣味でもいいこと」というような貴賎を見て取れる。
 
我々が、デザインができたり、アートができているのは、亡くなった大先輩たちのおかげであり、ルネサンス期のダ・ヴィンチ達が、手を動かしてものを作ることが卑しい仕事ではなく、貴い仕事であると認知させてくれたからだ。さらに、彼らが絵をかけたり、物をつくれたのは、石器時代に仄暗い洞窟で絵を描いたり、石器や土器に模様を描いてくれたからだ。もちろん、彼らだけでなく、和洋問わず、多くの先輩たちが動いてくれたおかげで、我々が仕事をできているのだ。
 
そのような中で、どうして、先のような言葉が吐けるのか疑問になるし、愚かだと思えてしまう。先人への感謝なしに、どうして仕事ができるのだろうか。

いつもいてくれる。

2015.9.12

先日、山梨に行く予定が変わり、奥多摩へ。一人、河原でビールを呑みながら昼寝をしていると、雲が出ててきて涼しくなっていった。急遽出来た一人の時間。しかし、それがどれほど大切な余白の時間であり、体であるか。頭から誰それを一切いなくし、その代わりに山の、森の、川の、石の、空の、生命で満たされる。自分も含めたその他大勢の思惑は排除され、ただそれを全うする当たり前に何億年も繰り返されてきた生命で、自分の体が作りかえられていく。あの自然の全てが藝術の神サマだ。
 
「時間」「労力」「金銭」「感情」の4点からコストとメリットを意識的に考えるようになった後、自分にとって「感情」が最も大切であり、その中でも「寿命を対価として支払えた感覚」を持った動きができたときが至上の感情であるとわかった。
 
自分にとって何を神と呼ぶかは自由だし、なんと呼ぼうが自由だ。ただ、その対象が、常に自分を見ていて、天にいたり、後頭部のあたりに浮かんでいたり、自分の中にいて、言動を律するかだ。良い動きができたとき、そんな神に感謝したくなる。

大先輩がまた一人。

2015.9.6

中平卓馬さんが亡くなってから数日が経った。大学一年の頃、森山さんの『新宿』を見て、「うわっ、スゲェ!」と感嘆し、書店で立ち読みしながら目と脳裏に焼き付けていた。すると自ずから「アレ・ブレ・ボケ」を知り、恥ずかしい話だが、その撮り方は森山さんのものだと勝手に思っていた。
 
中平さんを知ったのは、写真にハマっていく中で写真集を読み漁っていた頃だった。「アレ・ブレ・ボケ」を森山さんが始めだと勝手に思い込んでいた僕は、一人で恥ずかしくなっていたのを思い出した。
 
その後、日吉の専門学校に進むと、綱島に住んでいる学友から、「中平さんを見かけたよ!」という話を聞くたびに「マジかよ!」という一種のカミ様のような、金さん銀さん(僕が子供の頃にTVに出てた双子のおばぁちゃん)のような感覚だった。
 
そして、僕も見かけるようになって、体の老いを見るようになって、「生きて撮る」ことに生産性があるような、写真とともに生き続けることが美しいことだと感じるようになった。そういう人だった。
 
そんな大先輩がまた一人、ダ・ヴィンチやデュシャンのように、天から僕らを見守ってくれる人になった。見ててください大先輩、僕らも創り続けます。