Archive for 2015.5

視える。

2015.5.10

根津美術館に初めて行った。光琳絵画を目的として行ったのだけれども、庭園も素晴らしかった。人の手によって作られているとはいえ、日本庭園らしい限りなく自然を残すことで、都会の中心にいながら森林浴を愉しめた。そして、光琳の「燕子花図屏風」の後に見る、見事に咲き誇る実際の燕子花に、先人の描くという欲求もわかる気がした。
 
帰ってきてからは、昨日の続きである「ダークナイト・ライジング」を観た。犠牲的精神の先には、幸という報われがあって欲しいものだ。
 
その後、制作を少しして今も思う。昼間に見えたじいさんの姿は、他には見えないのだろう。そこにある一生が普通にあり、その中で、人は藝術と向き合ってきた。それは光琳やダ・ヴィンチも同じで、門弟や息子に受け継がれながら、また1つ別の命を見つけてきたんだ。俺が何かを残しているのかはわからない。だが、これだけは言おう。俺は正直に作品に向かえているよな。それだけが、先人への手向けだ。

再び。

2015.5.9

もう何度目か分からないけれど「ダークナイト」を観た。この映画を観るといつも同じことを考えるし、バットマン、ジョーカー、ハービー(トゥーフェイス)の三者全てに共感が出来る。信念を通すことも、信念が正義だろうと悪だろうとそれは狂気になるということも。
 
人を傷つけたら悪という考え方の下では、三者は全員が悪だろうが、信念を通すということは、すべからく正義にも悪にもなっているのだ。
 
そして、藝術において、ゲームとして愉しんでいる感覚も、少なからず、僕にもあるのだから、これは仕様が無いんだろう。

この世には。

2015.5.9

何のために人間同士は争い続けるのだろうか、と疑問を持つこともあるが、現状を変えたことで変わる前の世界で甘い汁を吸っていた人たちが吸えなくなったら、それは側から見たら争いに見えるのだろう。
 
「社会を変える」というのは聞こえが良いけれど、クーデターと同じ。人殺しと同じで恨みや憎しみを向けられる。
 
そんなことを踏まえながら「変えよう」としていると、どうしても好戦的な姿勢になってしまうが、そんなことさえ吹っ飛ばしてくれるのが創作だ。
 
目の前の一枚に命を懸けていく感覚。「本当に必要なものなんて、人でも何でもなくて、作品なんだよな」と思い出しては、この世にはな〜んにもないことを再認する。

悲しみの享受。

2015.5.6

夕暮れは寂しく、朝焼けは期待する。しかし、悲しみはどちらにもあり、夕暮れには終わってしまう悲しさ、朝焼けには始まってしまった悲しさがある。
 
制作も同じだ。始まってしまった悲しさと、終ってしまう悲しさをいつも内包している。その過程には高揚もあるが、どうして続けられて来れたかというと、終ってしまった時に感じる寿命を喪失していく感覚を愛でることが出来るからだろう。
 
人生で得られることなど、微々たるものではないだろうか。失い、悲しみをどれだけ享受できるのか、それとも、何も気付かない振りをして体制に合わせているのか。失ったものにどれだけ早くに気付き、思い出していくのかが、幸せへの切符のように思う。

身体休め。

2015.5.5

久し振りの二日酔い。風呂に入って汗をかき、そよ風に当たりながら二度寝をしていると、お腹が減る。若冲の絵を見に行こうと思い外に出たが、坂を登っていると膝関節が痛くなっていることに気がつき、とりあえずは、ご飯を食べることとした。
 
胆汁を吐くほど胃の中が何も入っていない状態。そんな空っぽの状態で身体がまず望んだのは「肉」だった。空きっ腹に肉を詰め込んでいくと、身体中が熱を発していくのを感じる。いきなり点火していくかのようだ。
 
さすがにその状態では休む必要があると察知し、結局、TUTAYAで「ウォーキングデッド」を借りて、始めから見ている。先日の「寄生獣」といい、肉を食べるものを見ると、肉を食べたくなるものだな。