Archive for 2014.8

普遍の感覚。

2014.8.10

「美しいって何?」と言葉にすると、神との糸が途切れてしまうが、「美しいってあるじゃん」と言うと、神と結ばれていることを実感する。
 
思えば、子どもの頃から、大地からのエネルギーを自分の中を通して、天空へ昇らせ、地球を覆っていく感覚を持っていたが、それは、先述のことだった。昔から、神に愛されていた。
 
焦りが薄らぎ、温かみが包んでいくのがわかりました。たとえ、一人で制作をし、一人で生きていく、そうだとしても、僕は神に守られている。

失敗からのすすめ。

2014.8.10

昨日、誤って過去の記事をひとつ消してしまった。「あっ、しまった」と思う一方、「まぁ、仕方ないか」と諦める気持ちが7割と言った方が当たっている。
 
もしも、全部消えてしまっても、おそらく、同じ気持ちなのかもしれない。そうしたら、同じことを再び行うというよりかは、違うことをはじめそうだ。
 
先のことが引き金になったのか、昨夜、急に余分なものを処分したくなり、これまで以上に処分を始めた。体と心以外は、もう、何もいらないのかもしれない。
 
そして、さっき、ふと気が付いた。
 
美しいと感じたり、美味しいと感じたり、セックスをしたいと思ったりすることがなくなっている。

普遍から外れている普通

2014.8.9

いつから「未来」を見るようになってしまったのだろうか。子どもが将来に夢を見るのとは違い、僕らは現実的な目測としての未来を見る。
 
当り前なのはわかっているが、何か行事があれば、計画を立てる。すると、建設的な未来を見ることになる。「行事→計画」の回数は、年を重ねるごとに増えていき、規模も大きくなり、お金、人数、時間も増えていく。そして、勝ち負けが生まれ、勝っていく。勝者になる喜び、恍惚、カタルシスという麻薬を体感していく。想いが強い者が勝ち、想いが強い者がとことん粘り、調べ上げ、説得ができ、物や関係性、システムを作ることができる。想いが強いというのは、四六時中、仕事をしていることになる。人といるとずっと、こんな生活をしている。
 
並行して、自分の日常でさえも、計画的になっていく。今でもそうだ、新居を探していたが、歯医者に通うことになり、今の住居から離れることや諸々の手続き変更から歯医者を変えることの面倒臭さによって、新居探しは延期した。携帯電話やPCの買い替えも、おおよそ知られている次に発表されるものと比べてからになる。 
 
全てが予定調和になる一方、予定調和に進まなかった場合は、スケジュールが縮まることになっている。この縮まりをクリアーしても、満天の星空のような自分を遥かに超えた美しさと出会えることもなく、「その後の展開の、このタイミングで直していこう」という打算的な出会いになる。 
 
今日死ぬかもしれない絶対的平等性——これを忘れている生き方をしていると、感動が薄らいでいく。命を対価として支払っている感覚がないのだ。

鶏か、卵か。

2014.8.3

結局のところ、「愛」というものは何だろうか? 映画でも、歌でも、日常でも、いたるところで愛の言葉が交わされ、「I love you」が多用されている。使用頻度を疑問を持っているのではなく、その実態がわからなくなるときがあるのだ。
 
誰かを守りたい、誰かと繋がっていたい、一緒にいたい、など、たくさんの感情があり、それは友情とも母性本能とも呼ばれる。それらを総称して「愛」と呼んでいるのかもしれないが、それでも、殊、男女間において登場が多くなるのは、やはり、種の存続に関わるからだろうか。
 
それは、即ち、本能だが、本能の結果に「愛」なのか、等価で「愛」なのか、愛が本能としてあって、種の存続を求めるようになったのか……。
 
最近、よく思うのが、「愛が本能としてあった」のが先だったのではないだろうか。一緒にいたいから、遺伝子を取り入れたい、というように、解明できない広大な感情が、人の動きを支えているという方が、どこか、ロマンチックではないか。