Archive for 2013.6

上がる確信

2013.6.25

自然の話の続きですが、作り手としてワンステップ上がることがわかりました。

20代も前半の頃までは、怒りや憎しみで作品を作っていました。結果として破壊力のある強さが出せていました。

その作品としての破壊力を、愛情と慈しみで、楽しさと笑顔の気持ちで作ることが、今よりも上がるきっかけになるのかもしれません。

そのためにも、歴史をもっと知る必要があるな〜、と確信しています。

優しい話

2013.6.24

昨日は入間川の渓谷で昼寝をして自然パワーを吸収していました。

自然の中で暮らすと難しいですが、ちょっとだけ自然の中に身をおいていると、地球に守られていることを感じます。

昼寝をしていたら雲行きが怪しくなってきたので帰り始めたら、案の定、通り雨に遭い、雨宿りをしていました。

雨宿りの最中も、風に乗ってくる飛沫が気持ち良く、しばらくの間、漂うような幸福感で惚けていました。

しばらくすると、雨が落ち着いたので再び駅を目指して歩き始めたら、通りすがりのおっさんが「これ、使いな」と傘をくれました。

まあ、使わないだろうなぁと思いながらも、僕の人生、その優しさにこれまで生かされてきたことを思い出して嬉しく思っていたら、再び雨が降ってきて、結局、傘を使ったんです。

地球も自然、人間も自然。地球が優しいなら、人間も優しい。

そして、優しさを吸収したので、優しさを還元したいよね。

好みの変化

2013.6.23

好みが変わってくることは、悪いことじゃないなと思っています。以前、「変化を恐れないことで会話が成り立つ」や「指針があれば、変化を恐れない」と話しましたが、好みについても同様のことが言えそうです。
 
子どもの頃、僕はポテトサラダもマカロニサラダも嫌いでした(マヨネーズが得意じゃなかったというかね)。その後、マヨネーズが平気になって、マカロニサラダが好きになりました。その時は、ポテトサラダも食べるけれど、嫌いじゃない程度でした。
 
そして、数年前から自宅でもポテトサラダを作るようになるほど、好きになっちゃったんですよね〜。
 
この理由を考えていたんですが、「好みが変わることが自然のこと」かもしれないですが、「変化を恐れないこと」が大きいのかなと感じました。
 
弁当についてくるサラダも残さずに食べていると、「あ、美味しいな」と思う経験があります。いつも、何と無しに食べていたのに、ふとした瞬間にご褒美のように「あ、美味しいな」という気持ちが生まれます。
 
そういう気持ちを経験すると、好きになりますよね。
 
でもね、変化を恐れて、拒否し続けていたら、その経験が出来ずに今も好きになっていなかったでしょうね〜。

腹八分

2013.6.22

運動をしたり、体を酷使すると、肉を摂取したくなります。パワーを外から吸収したいというものです。
 
「肉を食べること」の問題は知っています。ほ乳類を食べることでしか得られない幸福感が人間にはあるようだとも聞いたことがあります。どちらも正論なんだと思いますが、でもね、そんなことよりも、「全く禁止」だとか「食べ続けなきゃいけない欲求」だとかがマズいんじゃないでしょうか。
 
つまり、ほどほどで良いんです。毎日食べる必要はないし、栄養摂取の義務で食事をしているわけではないですし(そういう人達もいるんでしょうが)、食べるものも「腹八分」が一番美味しいんじゃないだろうか、と考えています。

写植

2013.6.22

写植時代を経験した方々が、素直に羨ましく感じます。全員がそうではないですが、写植で生きてきた人の文字組を見ると、かっちり組んだときも、遊びを入れているときも、美しい。これ、デジタルしか経験していない世代だと、なかなか培われないセンスです。
 
物質をアナログという前提で話をすすめると、人間はアナログ。本も、PCのモニターもアナログですよね。
 
そういう意味では、僕らがやっていることの全てがアナログの感覚を有しているとも言えます。
 
そして、それを写植時代の先輩達はしっかりとセンスとして持っている人が多いんですよね〜。時間があるときに、何度か写植で制作をしたいと目論んでいます。