Archive for 2011.6

更新

2011.6.18

with 10 years

結局は快楽主義者

2011.6.18

 これを読んでいる人達からすると、「筆を使うこと」が僕にとっては当り前のこととして捉えているだろうから(そうじゃない方はportfolioを参照して下さい)、そのまま話をすすめさせてもらうが、筆入れをする作品がある。筆入れをするのは写真プリントであるが、そのプリントにも時間もエネルギーもコストもかかっている。1mを超えるのも当り前で、それを昇華させるために筆入れをするのだが、プリントは塗料を削ったり消したりしようとすると、その下の写真の絵柄まで消えてしまうのだから、失敗して消すというのがありえない。もしも、(消すのも含めて)修正をするのなら、そこからまた昇華させる道筋を見なければならない。
 
 そんな訳で、筆入れをする時は一筆一筆、「えいや」っと清水の舞台から飛び降りる心境だ(大袈裟ではなく)。そんな時には、全身の神経や細胞がヒリヒリするのだが、やはり、死を身近に感じたときに抱く感覚と似ている。そして、さっき便所で用を足している時(枕上、鞍上、厠上の「厠上」だ)に気付いたのだが、「真ん中」というのも同じなのだ。真ん中というのは、少しでもずれたら正や負に落っこちてしまう。さっき、清水の舞台から飛び降りると書いたが、死を身近に感じるのは縁に立っているときに抱く感覚であり、落ちてしまったときに感じるものではない。つまり、縁に立って「おっとっとっと、おっとっと」としており、自らその場所に立っているのだから遊びに行っているようなものだ。映画『ハート・ロッカー』の冒頭にも出てきた「戦争は麻薬である」という言葉通り、死を身近に抱く感覚は、その現場にいるものにとっては麻薬であり、進んでその場所に立とうとする自分は、快楽主義者である。
 
 そのことは重々承知の上だったが、まさか「真ん中」の感覚までそこに繋がるとは思いもしなかった。
 
 以前にも書いたようなことを今更書いているのかというと、色々なことを「やめよう」と思ったり、新作『人間とは(仮)』のラフ画を描いていたりしていたら、「眠っている間にも魂は燃えている」が再び動き始めたからだ。「眠っているー」は約1年の間、壁に貼付けて常に見ている状態にしながらも制作が止まってしまった(完成がみえなくなってしまった)作品である。その作品が「やめる」ことを選んだ結果、「動き」始めたのだった。そして、今までの多くのことがその1枚に結集され、その先に待っている『人間とは(仮)』に繋がっていくのだから、今の状態以上に人生の面白味を享受しないことはないだろう。

靖国神社へ

2011.6.11

 諏訪敦さんの展示を観に行ってから、「ちょうどいいや」と靖国神社へ。今まではそれほど興味はなかったが、今年の初めに行った健康診断で医師から、戦死した大尉(少佐か忘れたが、何か位のあった人)と苗字が一緒だということで、診断結果の話ではなく、延々とその戦死者の話をされ、そして、靖国神社にはこの戦死者の銅像が建っているとのことで靖国神社に興味が湧いていたのだった。

 
 それで、いざ行ってみたら・・・ねぇでやんの。それらしい銅像はあり、文章を読んでみたのだが、一向に江口の単語が出てこない。しかし、発見もあった。医師との話とは若干異なっていたことに「あのじじぃ」と思いながら、靖国神社から出ようとした時に、出入り口のところで老人が深々とお辞儀している光景と遭遇したのだった。参拝中(銅像捜索中)に「案外、普通の場所だな」と思っていたのだが、靖国神社を靖国神社たらしめるものというのは、念のような社会常識なのだ。これは名産品やありがたいお食事などとも同じで、人の造り出した念造物が靖国神社なのだった。それは、興味を湧かせた医師が、「その江口っていうのが、所謂今で言うところの自爆テロをやったんだな。それで○○戦争を勝ちに導いたんだよ。いわば英雄だな」というような口振りで話していたように、如何に何人もの人を殺そうとも「戦争で勝った=英雄」という考え方や、今日見かけた老人のお辞儀、そして碑文に書かれていた「散華」という表現などからも察することが出来る。それが靖国神社であり、多くの人の念が造り出している念造物なのだ。

 
 それは、ユングの言う集団的無意識とも異なるし、何かを「美しい」と感じる美意識とも若干異なるような気がしたのだった。

2011.6.11

朝4時半に起床。さすがに早過ぎて身体がだるい。さっさとやめて昼飯食って、雨を歩こう。

更新

2011.6.11

「with 10 years」