Archive for 2011

作品を創るということ

2011.3.25

作品を創るということ

ゆっくりと速く
静かにざわめき
冷静に燃えたぎり
溜込み 発散させ
とどまり 動き
未来を感じ 今を忘れ 現在(いま)にいる
夢のようで 現実にいる
相反するようで直球だ
終わりのはずが 次が生まれる
時代がつくられる

作品を創るということ

大丈夫ってこと

2011.3.17

 悲観的になるのも、楽観的になるのも全ては主観なので何とも言えないが、創作が進む。お金を得るという意味でも、役割という意味でもこれが僕の仕事なのだが、着々と進んでいる。

 なまものや青果は売れ残っており、元から自炊派なので品切れにはさほど困っていない。しかし、海外の人達からすると日本は絶望的に見えるらしいのだ。これは僕の周りの人達からもよく聞かれる。けれども、大丈夫。もしもこれが戦争で、創作が不可能になれば亡命するかもしれないが、そうではないのだ。僕は日本に残り、日常通りに作品を創っていく。創れなくなったら、頭の中で創っているだろう。だから、大丈夫です。

Please, save power. Please, save energy !!!

2011.3.14

 震源地から離れている僕達がやるべきことは、「普通でいる」ということだとつくづく思う。普通に仕事をして、募金をし、「こっちは大丈夫」ってことを見せることではないだろうか。人それぞれなのだろうが、節電をして作業を進めることは出来るし、生活はできる。けれども、その場にいないにも関わらず、普通ではないとするから食料がなくなり、電波が乱れ、人為的被害が増えてしまうのだ。

 募金だって普通のことのはずだし、もっと遠い国々にいる人達に対しても同様のはずだ。普通に自分のやるべき仕事をして、無闇矢鱈と生活品を買い漁るためのお金を義援金に回すだけで、電波は乱れないし、食料や物資もなくならない。会いに行かなくとも、こっちから「大丈夫だ」と伝える術はあるんだ。

 僕は金曜日に歩いた道を、今日は車で送ってもらっただけで感動したし、そのちょっとした感動を優しさに変えて、ちょっと動くだけで大分変わると思っている。

 Please, save power. Please, save energy !!!

 ↑節電って英語合ってる?

離れた場所と時にいる人々

2011.3.12

 不思議なもので、地震後、三田から徒歩で日吉まで帰宅し、ガス・水道・電気・作品・家族の確認をすると一瞬で日常に戻り、風呂に入っている間に洗濯をして、その後、仕事に取り掛かった。地震直後は電波が混雑して家族と連絡はとれないのはわかっていたし、繋がってもガスなどの諸々のことを確認しあって初めて落ち着くのもわかっていたので、炭水化物とタンパク質と脂質を摂取しながら自宅までの経路を探索して、排泄をしっかり済ませて徒歩で帰った。同じように徒歩で帰る人達での混雑も予想されたし、車も動かないので、大通りを避けたり、車道の脇を歩いていたら3時間で到着。道中は、バックパッカー時代のひたすら歩いていた時のことを思い出したり、停電からの日吉駅前の真っ暗な商店街がなかなか新鮮だった。そして、普段通りの土曜日が始まったのだが、社会はそうでもないのだ。

 しかし、震源地から離れたこういう場所や時にその人の本性がでるのだろう。享楽的もしくは悲観的になるのか、仕事を全うしようとするのか、家族の安否を最優先にするのかなどなど・・・。酒で紛らわすのは最後の最後にとっておいて、普段通り、僕はベストのベストを尽くしてみたくなる。

さすが、世の中で最も読まれている書物

2011.3.10

 「聖書」を読んだことはないが、人の話を聞いたり、引用などから得た知識からでは、良く出来ていると思った。

 無に興味が湧き、それを知ることが人生の第一となると、自ずから死以外にはありえないことに気付く。しかし、聖書曰く、自殺は罪であり、地獄行きだそうだ。ここでは、行き先がどこかは問題ではなく、「行く」ということが出来るということは「存在している」つまりは、「無」ではないということなのだ。「自殺をすれば「無」ではないよ」と書いているらしいのだが、「地獄行きだ」と言われるよりも痛烈に自殺を踏みとどまらせる効果がある。そして、無を求めて死んだ結果が、「有」であればその者にとっては地獄に来たようなものだろう。そういう意味で地獄行きと書いているわけではないのだろうが、かなりウィットのある書き手だ。