Archive for 2011
良き時間はあっという間
2011.6.5
クライアントワークスも溜まってきたので、ポートフォリオ(PDF)を作成していたら、この1〜2年での変わったところが見て取れるので、面倒臭いけれどちょっと楽しい。
昨日は大学時代から関係が変わらない友人と、Bunkamura ザ・ミュージアムへ「ルドゥーテ 美花選展」へ行っていた。圧倒的な画力と完璧主義を思わせる仕事振りに嘆息を漏らしながら、彼の筆致を追って自然と指が動く。しかし、淡々と同じ構図と画力で進められる展示は、正直疲れた。後半に出てきた違う人の植物画の画力は劣るが、すっきりとした作品達はへとへとの心身に休息を与えてくれる。
見終わった後に、(これも変わらず)ビール片手に代々木公園まで歩き、そこでもまたビール・・・。たまに訪れるこういう時間が、すれっからしになる僕を真ん中に戻してくれる。
クライアントワークスも溜まってきたので、ポートフォリオ(PDF)を作成していたら、この1〜2年での変わったところが見て取れるので、面倒臭いけれどちょっと楽しい。
昨日は大学時代から関係が変わらない友人と、Bunkamura ザ・ミュージアムへ「ルドゥーテ 美花選展」へ行っていた。圧倒的な画力と完璧主義を思わせる仕事振りに嘆息を漏らしながら、彼の筆致を追って自然と指が動く。しかし、淡々と同じ構図と画力で進められる展示は、正直疲れた。後半に出てきた違う人の植物画の画力は劣るが、すっきりとした作品達はへとへとの心身に休息を与えてくれる。
見終わった後に、(これも変わらず)ビール片手に代々木公園まで歩き、そこでもまたビール・・・。たまに訪れるこういう時間が、すれっからしになる僕を真ん中に戻してくれる。
温かいお茶が飲みたいが、無いのなら仕方が無い
2011.5.29
人は裏切るので、初めから期待しないようになってからどれくらいの月日が経っただろうか。死にそうな人を前にしたらその後の彼の人生を考えずに助けたくなるものだと気付いてからどれくらい経ち、憎しみだけでなく優しさと愛に気付いてからどれくらいの月日が経ったのだろうか。しかし本質が変わるはずも無く、憎しみに支配されていた頃よりも愛と可能性に気付いた後の方がタチが悪い。いつでもあっち側に堕ちることも出来るし、いつでもそっち側に昇ることも出来てしまう。けれども、憎しみと怒りでの日々の消耗と疲弊は今考えると末恐ろしいエネルギーだった。それ故、憎しみで支配されている人に「疲れたね」と抱きしめることが出来るようになってからどれくらいの月日が経ったのだろうか。真ん中でいたいのなら何もかもも知りながら、高まる意味がない。今日は雨。洗濯物が乾かず、雨脚は強くなる。
人は裏切るので、初めから期待しないようになってからどれくらいの月日が経っただろうか。死にそうな人を前にしたらその後の彼の人生を考えずに助けたくなるものだと気付いてからどれくらい経ち、憎しみだけでなく優しさと愛に気付いてからどれくらいの月日が経ったのだろうか。しかし本質が変わるはずも無く、憎しみに支配されていた頃よりも愛と可能性に気付いた後の方がタチが悪い。いつでもあっち側に堕ちることも出来るし、いつでもそっち側に昇ることも出来てしまう。けれども、憎しみと怒りでの日々の消耗と疲弊は今考えると末恐ろしいエネルギーだった。それ故、憎しみで支配されている人に「疲れたね」と抱きしめることが出来るようになってからどれくらいの月日が経ったのだろうか。真ん中でいたいのなら何もかもも知りながら、高まる意味がない。今日は雨。洗濯物が乾かず、雨脚は強くなる。
医術、藝術、科学の道
2011.5.27
死にまつわる文献を読んでいると大別して3つのパターンにわかれるということがわかった。1つは「無になる」、2つ目は「肉体が死ぬだけで、精神(魂、etc)が自由になる(精神は生きている)」、3つ目は「精神が死ぬが(精神という機能が停止するが)、肉体は腐り、骨となり、どこまでが生なのか、死なのか」というパターンだ。そして、死に対しても「わかる」、「わからない」という前提で話を進める2つのパターンがある。
このパターンで進めると、僕は死を「わからない」前提で、わからないからこそ、全てのパターンがある程度合っているともとれるし、全てのパターンに対して懐疑的な立場なのだ。そして面白いのが、どのパターンで話している人であっても、この手の本質を「わかる人はわかるし、わからない人はどうやってもわからない」と言っているところである。その点は僕も同じに考えていて、どんな人間でも自分にとって正しいことしか考えていないので、わからない人はその人として正しいとする考え方や癖を持っているのだから、その場でわかったとしてもフリなのだ。
もう1つ面白いのが、どのパターンも結論としての考え方が異なっているのに、根底の考え方や道筋は同じであったり、近かったりするのだ。なぜ、こうまで異なる結果になるのだろうと考察してみると、それぞれの職業に由来することを発見し、「職業というのはその人を表すのだな」と思ったのだった。そして、どの職業も身近にして育ったことに思い当たって、笑ってしまったのだった。
死にまつわる文献を読んでいると大別して3つのパターンにわかれるということがわかった。1つは「無になる」、2つ目は「肉体が死ぬだけで、精神(魂、etc)が自由になる(精神は生きている)」、3つ目は「精神が死ぬが(精神という機能が停止するが)、肉体は腐り、骨となり、どこまでが生なのか、死なのか」というパターンだ。そして、死に対しても「わかる」、「わからない」という前提で話を進める2つのパターンがある。
このパターンで進めると、僕は死を「わからない」前提で、わからないからこそ、全てのパターンがある程度合っているともとれるし、全てのパターンに対して懐疑的な立場なのだ。そして面白いのが、どのパターンで話している人であっても、この手の本質を「わかる人はわかるし、わからない人はどうやってもわからない」と言っているところである。その点は僕も同じに考えていて、どんな人間でも自分にとって正しいことしか考えていないので、わからない人はその人として正しいとする考え方や癖を持っているのだから、その場でわかったとしてもフリなのだ。
もう1つ面白いのが、どのパターンも結論としての考え方が異なっているのに、根底の考え方や道筋は同じであったり、近かったりするのだ。なぜ、こうまで異なる結果になるのだろうと考察してみると、それぞれの職業に由来することを発見し、「職業というのはその人を表すのだな」と思ったのだった。そして、どの職業も身近にして育ったことに思い当たって、笑ってしまったのだった。