Archive for 2010.10

美と結びつけてしまう性質

2010.10.7

 作品を創作すれば、必ず真逆の性質の作品も進むことになるのは昔からだった。

 性質というのは全てにあり、全ての人間が持っているものでもある。そして、人間を考えるとき、現代人から藝術が必要のないものと思われていたり、それほど重要なものとは思ってもらえていないことを考える。仮にそのような人間しか今後生き残らなくて、数在る名作や美術館の全てが廃棄されたとしよう。そして、栄養なども栄養剤で摂取しても十分すぎるような状態になり、何もしなくても全くの無菌で埃も生まれない社会になったとしよう。そのような社会なのだから、合理性の高い動きだけを求め、機能だけを追究した社会でもあるだろう。

 多くの人達が「そんな社会はつまらない」と否定するだろうが、僕はこのような社会になることは否定しない。

 なぜならば、栄養剤を摂取する際の動作にさえ、「美」を見出そうとしてしまうのが人間だからだ。極度に合理性を求めた人間しかいないということは、不合理な動きをしないということであり、スポーツでもそうであるように、より合理性の高い動きは良い結果をもたらすとともに、観客の目を釘付けにする。彼らの体や動作の美しさが、同時に結果をもたらしてもいるのだ。しかし、人間はどんなに頑張っても完全な動きが出来ない存在でもある。だからこそ、よりよい動きをしようと「努力」をし、「追究」をする。その姿を他者が見て、魅了される。つまり、「美」を感じ、藝術の種が生まれるということだ。その後は、予測がつくだろう。

 人間はどんな社会になっても、「美」から逃れることは出来ないし、藝術と無縁でいることなど不可能なのだ。だからこそ、藝術を必要の無いものと思うのは、人間が生きる上でも勿体ない生き方をしていると考えられるのである。

 そして、人間について考えるとき、このように「美」や「藝術」と自ずと結びつけて考えてしまうので、僕はこれを仕事としているのだ。人間として生きて死ぬのであるから、何と結びつけて考えてしまうかが、その人の性質なのだ。

粉雪と黒炎

2010.10.4

 さきほどまで白盤(http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/)のトップページの作品を進めていたら、広がっていく様が見て取れたので驚いた。粉雪のように煌めき、立ち位置を変えれば光の加減から見える線が異なる姿は、作品のサイズを越えて黒い炎が移っていく様は美しいとしか言えなかった。白い雪が掘り起こされ、光を纏い、黒い炎を立ち上がらせる。そんな中でも人は眠り、未来を創るために力を蓄えている。

10年目

2010.10.3

 作品のテーマに合っている情報というのが必ず手に入るというのは「ラッキーだな」と思うとともに、その分野への嗅覚が鋭くなっているのだろう。

 話は変わり、高校の時から履いているアイリッシュセッター(RED WING)が、おそらく10年目に入っている。オールスターは10年目で代々木公園で遊んでいるときに靴底が抜けてしまったが(ちょこちょこ手入れしていたのに・・・)、セッターはソール交換ができるから大丈夫。むしろ、ソール交換代の方が既に購入代金を越えていると思う。山に行くのも、旅に出るのもこの靴と一緒だった。雪も泥も絵具も経験している靴だ。

 しかし、10年目になるとどうしたものか、情というよりも一種の念のようなものを感じるのだ。足の存在感が大きいというのだろうか、靴というよりも足が大きくなるような感じがしてしまう。