Archive for 2010.9

初対面つづき

2010.9.11

 昨夜、異なる場所で初対面の人達と何度も出会っていた。

 明るい部屋では初対面ではないけれど、古田さんと2人で初めて話をした。いくつか罠にかけようと思って質問をしていたのだけれど、正直な人なのだなと思った。展示は今日までです。正直な展示でした。

 そして、久しぶりに三木さんと会った。三木さんは相変わらずなグッド・スマイルを放ち、「ディーサブ」と言っていたのだが、DVIの仲間だろうと思っていたら、微妙に異なるので、参った。誰か持っていませんか?(重要)
「ディーサブ」を初めて認識したのだった。

 20時の待ち合わせには2時間ほど時間が余ってしまったので、久しぶりに番狂せへ。そしたら先客のナイスミドルな兄さんと公家さんと話をしながら、美味しいお酒とあてで時間を楽しんでいたら、ナイスなおっちゃんと、MJの鈴木勇介さんが途中参加。「MJ」とパッと聞き、「あれ? どこかで聞いたような・・・マイケル・ジョーダン?」と思っていたら、友人も通っているイラストレーターの塾であった。しかも、クラスが同じらしい。公家さん以外、初対面。

 後ろ髪を引かれつつ番狂せを後にし、四谷の飲み会へ。そこでは、便所待ちの時に隣におすわりになっていたナイスガイな方とそれぞれの仕事の話をちょこちょこ。10分くらい。

 昨日はそれだけではあらず、帰宅の電車で眠っていたら、終点で知らない女性が起こしてくれました。一瞬の出来事。そして、世の中は、こんなにも初対面で溢れているのだ、しかし、たった一言、一行為によって、それは全く知らない人じゃなくなるなんて、なんて単純に人は人と出会うのだろう。しかし、その一言や行為がなければ、知らない人のままなのだ。この差は大きいといつも思う。

本当の挫折がチャンス

2010.9.10

 drunk afternoonの方で「諦める」ということに書かれていたので、僕も「諦める」ということについて書こうと思う。

 以前にも書いたと思われるが、「諦める」は、「諦観」という悟りの1つが語源らしい。そして、諦観は「明らかに真理を観ること」であり、入念に観察し、考えることであった。そして、悟り、世の中の事情にこだわらない態度でいられることとして、「あきらめて、超然となる」ということになる。最初の「明らかにー」が、「あきらめる」になったらしく疑わしいが、まぁ、言葉の響きはそんなものなのだろうなぁ。

 そして、大切になってくるのは諦めることが、他の可能性に気付くチャンスだということだ。現代的な意味での諦める状況というのは、何か挫折があったり、悪いことがあったり、後ろめたいことがあったりする場面と遭遇して生じるものだろう。しかし、先にも書いたが、「入念に観察し、考えて、悟りを開く」のだから、自ずと「何故、そのような状況になったのか」や「自分のどこが悪かったのか」など、環境と自己について考えることになるはずだ。つまり、「今回のような状況では悪い結果になったけれど、○○したら良い結果になるんじゃないか」や「自分はこういう人間なんだな(こういう性質を持っているんだな)」ということを考えつくチャンスなわけだ。

 ということは、本当に諦めて、挫折をしてしまったら、次に行こうと立ち上がることをするのだ。もしも、そのままずるずると進んでしまったのなら、それは本当にショックな出来事だったとは言えないのだろう。そして、どこかで「自分は悪くない」と思い、別の事に諦める理由をなすり付けていないだろうか。

 立ち上がった人間には、けっこう後ろめたい過去があるもんだ。けれども、その度合いが強過ぎたお蔭で(?)、こうして自分のやりたいことをやりながら、自分の役にも他人の役にも立つことができているのだ。

メンテナンス

2010.9.6

 「人生はあっという間なのだろうな」と、度々思う。今年で28歳になったのだが、実感としては「10歳」ぐらいだ。だから「子どもみたい」と言われると、「ふむふむ、利用しちゃおっかなぁ」なんて愚考が浮かぶのだが、「年寄りみたい」と言われると、「ふむふむ、う〜む」と梅干しの種を食べている時のような雰囲気になってしまう。

 しかし、このどちらも言われてしまい、大抵どちらも評価として言ってもらえることが多いのと、「人間はアンビヴァレンスな生き物だ」と思っているので深くは考えていないのだが、「実年齢っぽいです」と言われたことはほとんどない。

 そして考えてしまうのは、夭折していった人達のことだ。「彼らはいったい、いくつだったのだろうか」という、誰もわからないし、答えのないことを考えてしまう。そして、体の衰えだ。良い作品を作るためには、自ずとメンテナンスが大切になってくるし、体が眠くなったら眠ってしまうように体と精神は繋がっている。残酷にも作品は1つの答えを示すので、良い作品をつくるためには問いと向き合わなければならず、精神と肉体が整っていなければ立ち向かう事は出来ない。