Archive for 2009.11

美しい人

2009.11.13

 最近もよく人と会っている。相変わらず僕は同じ主旨のことを話しているが、今創作中の作品を見せる機会がある場合は必ず見せて感想を聞いている。嘘か本当かはわからないが、良い感想をもらう。今のところどういう落ち着き方をするのかは、まだまだ伸びしろがあると思うので何とも言えないが(向上には欲深い)、現時点での最後の1枚からくるものは、とてつもなく清らかだ。

 それを見ながら「僕は僕に導かれていた」と気付き、それはとても嬉しいことだった。作品を観ていると澄んでくる。そんな作品と出会い、関わることが出来たことが、最良の幸せなのだろう。

過去から今

2009.11.7

 『レッド・クリフ part1&part2』を続けて観ていた。地上波で「part1」が放送された時は観る事が叶わず、少々残念だったが、CMを挿まないで観た方がテンポが崩されずに観れたのでむしろ幸いだった。「part1」の方がテンポも見せ方もドラマ性もあったように思えたのだが、トータルではよく楽しめたし、カメラワークなど勉強になっていたし、小学校時代に横山光輝先生の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』を好きで良く触れていたので、より一層楽しめた。

 そして、そういう過去のことを思い出しながら、ふと、空の景色が浮かんでいた。

 空を眺めることで全てが十分だと感じていたし、感じている。今では、「空を眺める」ことを思うだけで、それを観る事が出来、それを体感する事が出来る。そのことは「空を眺める」だけに留まらず、全てにおいて「思う」ことで体感することが出来る。その強度は増すばかりだ。私だけで良いのならば、具現化は必要がない。「思う」その瞬間こそが絶対的なのだ。

繋げられるものを残す

2009.11.6

 物があまり必要ない。と、言うか、物を無くす生活をしようかと思う。物を残すことを考えるとして、50億年後、地球が亡くなる日までその物が残ったとしよう。その日には人類や生物はいないかもしれないし、地球は既に使い捨てられているかもしれない、しかし、仮にその日を迎えなけれなならない人類がいたとしたら? だったら、単に物が残っているというよりも、その日を迎えるのを恐れない人々になっていた方が良いとは思わないだろうか?

 物は朽ちるし、地球が亡くなれば物も無くなる。けれども、人の考えは繋げていく事ができる。どうやら縄文人と現代人とに人間的な本質に大差はないようであり、それにもかかわらず、人間は文化を発展させてきた。そして、色褪せたり、翻訳されたりと表皮が変わった物を通して、ずうっと昔の人達の考えを知り、私たちは再び考えることが出来る。それが「繋がる」ということであり、人間が人間らしく生きることだ。これも1つの考え方だし、全く異なる考え方を持つ人もいるだろう。しかし、単に「残す」ことに終始してしまえば、人に繋げる事は難しいだろう。

 人が人として生きる上で正しい事をするように気付ける物を残したいし、そうしてきたつもりだ。

 地球が亡くなる日のことを考えることを馬鹿馬鹿しいと笑うのも、1つの考え方だろう。けれども、俺は考えている。それを言う事で、他の誰かが勇気を持てるのなら、俺は何度でも何処でも言うし、動くよ。

結局、生きる事よりも生き方が大事だ

2009.11.4

 ディレクターさんの集まりみたいな場所に連れて行ってもらい、色々な人を紹介してもらい、よく話した。

 至る所で様々なジャンルの作家さんと出会い、出会う度に、よく話す。

 違う職種や年代の異なる人達と出会い、その度にも、よく話す。

 話すときは大抵、人間の生き方に関わることであったり、自分の(相手の)そういうことだったり、やっていることだったり、藝術や写真や依頼業のことだったりと多岐に渡るが、最終的には「人間の生き方に関わること」の話になっている。これを続けていたら、その内に、真っ白な灰になってそうな感じもするが、そうなったらそうなっただと思っている。「このホームページ以外に(他のジャンルのことでも検索に引っかかるように)エグチマサル相談室みたいなホームページを作ってみたら?」と提案されるが、そういうの必要? う〜ん、blogやdocumentじゃ足らないのかなぁ。

 美味しい韓国海苔やハワイ土産のチョコレートや音楽を頂きました。こうやって日々を生きています。ありがとうございます。

簡易紹介

2009.11.1

私の事を紹介

 私は、全ての人間は幸せになる権利を持っていると考えています。そのことをやろうとすると、藝術・哲学・宗教の領域になるでしょう(わからない人は辞書を引いて下さい)。そして、作品でそれをやろうとするから、私は藝術家を名乗り、写真媒体を用いているために写真家を名乗っているに過ぎません(言葉でそれをやれば、私は哲学家になるでしょう)。

 醜いもの(不快感情)から、普遍的な美を求めようとすると、観た人(体験した人)にかかる負荷はその人を死に至らしめるほどになるか、日常生活が送れないほどになってしまいます。そして、歴史的作品や建造物も醜さから美を放っているとは到底考えられません。なので、朝日が昇るときや満天の星空を観た時に人々が感動するような、そんな作品を私は創っていきたいのです。

 それらのことは、日常生活にも現れています。藝術家(アーティスト)だから社会から逸脱するような振る舞いをしていいとは思っていませんし、これからの子どもたちが藝術を志した時に、作品のことだけで悩めるような時代になるように、私たちは藝術家も社会人として振る舞うべきだと考えています。

 そして、どの職業でもそうですが、その職に身を置く者ならば、その領域の可能性を広げるように努めるべきだと考えています。そのためには過去の事を知り、先達のしてきた事を知り、その良いところは伸ばし、悪いところは直すことが、未知の可能性を広げていくことに繋がります。一見すると写真作品に見えないかもしれない作品を写真作品として発表していることは、各作品の資料をお読み頂ければご理解可能と思われます。これらの活動を通して、写真藝術の可能性が広がって欲しいし、鑑賞者が感動するような作品を創っていく事が私のすることです。

 最期まで読んで頂き、誠にありがとうございます。

エグチマサル

※ 活動紹介用の簡易ファイルを渡すために簡易紹介文を書いていたら、「ここに載せてもいいかもね」と思い、載せてみました。