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個展を終えて・・・

2009.9.3

8.25-8.30.09 「生命の形」(エグチマサル EGUCHIMASARU)@企画ギャラリー・明るい部屋

 今回のエキシポートは番外編ということで、先日まで開催していた私の関わった個展「生命の形」についての感想文を書こうと思う。

 率直に意外だったのは、悪い反応が少なかったことだった。「わからないけれど、良い」、「静謐な作品が良い」、「余白の量から自信が窺える」など、反応した人々の深度もわかるものだった。けれども、この深度レベルについて述べると開催前に予想していた反応の範疇は超えていないものだった。こういう言葉でのやりとりは、「こんなことを考えた」、「こんな変化がありました」、「こういうことをしてみようと思います」などと鑑賞者から報告を受けることにまで発展させてもいいのかもしれない。

 展示の失敗したと思われる点は、第一にポートフォリオとの連関性だろう。活動紹介用のファイルなどと同じ仕様で同じ場所に置いたために、あのポートフォリオを観なかった人からは写真ということからは程遠い作品のように見受けられたのではないだろうか。しかし、あれだけ帯をしっかりと作ってあってポートフォリオやファイルを観ようとしなかった人にまで手を差し出す必要があるのだろうか。この議題は活動を続けていく以上は付いて回る問題であり、今回は手を抜いていたり稚拙に見えたり、猥雑に見えたりする要素を徹底的に排除していったので、疑問が残るところである。
 第二に会場の空気を壊さない収容人数量が挙げられる。私が在廊していた時ではイベントの時や最終日の人数やセッティング(イベント時には椅子を出していた)では、あの展示の空気感は全くと言っていいほど崩壊していた。やはり、今回の展示では一度に収容できる人数は2人が限界だったと思われる。

 また、今までの展示や作品性とは表面上はかなり異なるものだったので、今までの作品を知っている鑑賞者ほど作品への解釈に苦労したようだった。私は展示をする度に、最後の展示として挑むのだが、鑑賞者たちは過去と今回を繋げ、未来に期待してしまうものなので、より一層、今回の展示を観ることを難しいものにしてしまったようだった。しかし、その未来の話をされるとき決まって、現代美術の先にいる人として期待されているようなのだが、私は藝術家として当たり前のことしかしていないつもりだ。それに、立派でもなければ教育者でもなく、たびたび我執に囚われる。欲望や怒りと言った方が伝わりやすいのだろう、自分で気をつけなければならないほど弱い。綺麗な(可愛い)女性に誘われたらひょいひょい付いていってしまうし(弱い)、「良い作品を創れる」と確かなものを掴んだときにはにょきにょきと角や牙が生えてくるし(弱い)、度々、黒いもやで心身が支配される感覚を覚える(弱い)。そんな時、「現実や実際だと思われているものもただの己の認識でしかない」と常に思っているにも関わらず、一呼吸の間を取らないと我執から離れることが出来ない。何度、深呼吸で我に返ったことか。だからかもしれないが、鑑賞者にそのようにお褒め頂いても距離を感じてしまう。

 未来への話をするのならば、「生命の形」という作品の発展は可能だろう。少なくともあの作品だけであと2回(計3回)は個展が可能だと考えられ、回数を重ねる毎に作品の性質を広げていくことが可能となるだろう。2回目は、ポートフォリオにあった六切りサイズのものを1456×1030mmほどに出力し、並列させて展示する、所謂、いつものような展示方法だ(技術職の認識ではこの倍まで出力可能なピクセル数、解像度で創られているが、接近して観ると他の写真家の作品のように興醒めしてしまうものになってしまうだろう)。そして3回目は、初回、2回目、3回目のDMを裏打ち、額装をして横一列に展示をする。2回目のデカもの作品で見せていく方法は、自然美に近いもので、自然物に近い存在である。3回目のDMを完全に作品として見せていく方法では、現代での告知ツールとして役に立っているのかわからないまま過去の倣い事として刷っているに過ぎないDMを、展示が終ったら用済みのものとして使い捨てるのではなく、作品として見せられる状態で刷ることによって作品として機能でき、DMから美術作品へと変化していく様を(初見の人は特に)それと知らずに見せていく方法である。原画の枚数が今後、増えていくのかはわからないが(今回は増やそうと思って創作に挑んでも、1枚も描けなかった)、その可能性は極めて低いだろう。

 鑑賞者の感想を聴いていたら、作品のグラフィックから乳房や陰部などを想起した人達が多いようだった。けれども、そのような性的なものをモチーフに選んだことはなく、具体的にはよりミクロ(マクロ)なものを選んだり、私個人の内的な心情が描かせたものだった。しかし、生命の形が円(球)、筒型、円錐ということなのだから、鑑賞者の想起の仕方は適切で、作品からそれらを想起したことがその人の性質でもあるのだろう。岡部東京くんの感想に、「エグチくんは宮本むさしや」という言葉があったが、現代で宮本武蔵像を語るのは井上雄彦先生の『バガボンド』に沿わすのが良いと思われる。私は、『バガボンド』は連載開始当初から読み始め、単行本21巻(全部立ち読みでごめんなさい)あたりからの武蔵や武蔵に深く関わる人の心情は私のそれとリンクするものがあった。「美しいのならば人を切っても構わない」、「刀が教えてくれる」、「余計な色が付くのを拒む」、「今のど真ん中の繰り返し」、「刀を抜かないために修行をする」、「天と繋がっている」、「真ん中でいること」など、漫画を開かなくともこれだけの言葉を思い出すことが出来る(正確な表記ではないかもしれない。そして、かなり脱線するが、私は登場人物の中で「又八」が一番好きだ。本位田又八、彼の臆病さ、卑怯さがとても人間らしく、その又八が成長していく様を漫画中で見られるのはとても良い時間だと思える。途中、じいさんになっている又八がちょろっと現れるが、その姿に嬉しさを覚えるほどだ。次の行から本題に戻る)。

 だからだろうか、未来に邁進しようと望まず、心を真ん中に持ってくるだけで、全てのことが足りるようになっている。展示はもうしないかもしれないし、するのかもしれない。創作の現場だけが、俺のすべてをぶつけさせてくれる。創作の現場にいるときにだけ、藝術の神サマよ、ありがとうよ、と言いたくなる。それ以外の媚びへつらいや、生き長らえるためだけの生活なんてものは私の精神を汚すことであり、そんな状態から有益に向かえるはずがない。「生」も「死」も「現実」さえも、私たちがそう認識しているに過ぎない。そのことに気付けば、自分の信じていることをして、たとえ今この瞬間に「死んだ」としても、それは単なる(他者が認識しているに過ぎない)「私の死」であり、私自身はただ無くなるだけであり、今の状態(現実に生きていると思われている状態)と何ら変わりはない。つまり、自分の性質、適性、方向性を知り、その信じた道を進もうとする姿勢が大事なのであり、その姿勢を持った瞬間から、「生き死に」に翻弄されることもなくなり、私は、私の生き方を認めるだけ事足りる。たとえ、今この瞬間に死んだとしても。

 何だか暗い表記のように思われるかもしれないが、私の心情は落ち着いている。作品が教え、風が教え、虫が教え、大地が、空が、己が全てを教えてくれる。それだけで良いはずなのだが、人々はそうではないのだろう。

 おしまい。

原稿作成日:9.3.09(thu)