名前の必然性

2013.3.21日々のこと

ラフや模写の線が細い。たとえ、濃く、太く描いたとしても、出来たものに線の細い印象がある。こういう状態で、荒々しさを出す描き方をしても意味がなく、今制作されているようなものの場合はいいが、デザインの場合は男らしいものの方が得意だったので、ちょっと困っている。
 
制作が終ったときに感じていた「魂や体が消えていく感覚」が、普段からするようになっているのと関係しているかもしれないと、いま思った。現代の悪癖に上げてしまうが、何にでも名前を付けてしまう事は、僕はどうだろうかと疑問を持っている。
 
こういったあやふやな感覚をそのものとして扱おうとすれば、適切な名前を付けるというのは本当に難しい。しかも、名前を付けてしまえば、誰にでも当てはまるような気がするが、名前を付けた事で、普遍性が遠のくということもあるのだ。特に疾病と言われるようなものの場合は特にそうだと思う。
 
デザイナーだろうと、写真家だろうと、画家だろうと、物を作る人間が病院に行けば、必ず何かしらの疾病を言い渡されるのが現代の病ではないだろうか。配置にこだわる人や綺麗好きはたくさんいるでしょうし、0.025mmをこだわるのはその他大勢からしたら尋常じゃないでしょう。僕は「抜く」大切さを重視しているけれど、それでも彼らと同様に、他の大勢の人達からしたら、制作においてこだわりは強いと思う。そういう人を遠のけるのは簡単だよね。
 
けれど、技術を上げてきた人達って大体、そんな人達だと思うんだけどな~。つまりは言い方なんだよね、「疾病」と言えば聞こえは悪いけれど、「こだわり」と言えば聞こえは良くなる場合がある。

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