桜の話のつづき

2013.3.22日々のこと

先日の「桜の話」に関係したことを。以前、「桜は満開の時よりも、満開手前の方が想像出来て美しさを体感できる」と話したけれど、これって制作過程で言うと、完成の手前や、完成といったところだと思った。
 
制作をしていると色々なタイプの人達と出会うけれど、「完成の一歩手前で完成させる」というのは面白いなぁと思いつつも、僕はしない。それよりも、「余白や動きで抜く」ことに重きを置いている。つまりは、完成させるということです。美術業でも企業系でも、余白や最小色数、最小グリッド値は大切になる。
 
今や新定番となっているフラットデザインも、日本では10年ほど前から、世界的には5年ほど前から、大衆的なものでも見るようになり、3年ほど前に流行った。流行で終らなかったのは、それまで競合を出し抜く派手さで、視聴者の目を騙そうとしてきた流れよりも、フラットにすることによって、タイポグラフィへの意識や色や形の相関など、基礎力の底上げから真の美しさを目指すように変わってきたからだ。
 
それは、伝統工芸の紹介、ライフスタイル提案型、幸福感を売りにする書物など、視聴者の意識が中身に変化していることからも同様のことが言える。
 
閑話休題。満開手前=完成手前、満開=完成という図式を乱暴につくってしまったが、何故、桜の場合だと満開手前がいいのに、制作では満開(完成)に至らせるのか。それは、桜の場合は想像ができるのだ。つまり、満開の桜がどういうものか、それぞれ知っており、人は自分の最も美しいと感じる桜を想像することが出来る。
 
しかし、制作になってくると、視聴者は想像することが出来ないのだ。当り前のことであり、制作されたものを視聴者は体験したこともなく、不確定なものに不安を抱くのは人間の性である。故に完成させることで、自分も含めた視聴者の食指を動かす事が出来るのである。そして、完成させたものが派手さで騙す方向から、内面を底上げしたことで生まれる感動が、これからは求められるだろうし、僕は好きだ。

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