結局、第一印象。

2019.1.6心の健康, 日々のこと

物事をいいと思うには、第一印象しかないと思うようになってきました。
話を聞いたり、物を見たりした瞬間に「でも」と思ってしまったものは、その後、どれだけ説明されても、いいと思うことはないんじゃないだろうか。
もしも説明されて「いい」と思えた場合、説明されるまで「いい」に気がつかなかっただけです。
つまり、気づけた瞬間に「いい」と思えたことは、気づきと出会ったときの第一印象で「いい」と思えている状態と言えます。
これが説明された後も「でも」と反論が続く場合、その後に意見を採用しても本当にいいと思えてはいないんじゃないだろうか。
「歩み寄る」と言えば聞こえはいいけれど、この聞こえの良い甘美さに、多くの人が惑わされていないだろうか。
ここで起きているのは、「歩み寄る」ではなく、「折れた」んじゃないだろうか。
 
なぜこのようなことを思ったかというと、人の鬱憤が溜まる理由を考えていたからです。
正確には、人間関係で鬱憤が溜まる原因です。
 
相手と感覚がバッチリ合う人もいるのかもしれませんが、何かしら感覚は合わないものです。
そもそも、全部の感覚が合う人と、ぼくは会ったことはないですし。
「感覚が合わないから、人は面白い」なんて言うつもりはありません。
やっぱりね、感覚が合う部分が多い人と話している方が、面白いに決まっています。
感覚が合わない人と話をすると、無駄な意見の衝突が起きるだけでしょう。
 
「議論をすれば解決できなる」など、世間知らずが言うことです。
世の中、解決できないことだらけです。
解決できないことを踏まえて話をするのが大人の礼儀。
説明して「いい」と思えるというのも、その部分で感覚が合っているからです。
感覚が合っていないから、「でも」が続く。
 
仕事であれば、他の事例を出したり、多数決などで「まいっか」と思って採用しているだけでしょう。
仕事には、進めるための方法があるだけです。
これが、仕事を抜きにした人間関係にはないです。
話し合いで解決できると思っている人がいるのなら、それは、その人が解決したつもりになっているだけです。
結局、意見が合わない場合は、どちらかが折れているだけです。
ぼくの場合はこう思うと、鬱憤というのはだいぶ減ったと思います。
 

コメントを書く