一生懸命な人を笑わない生き方

2009.10.15日々のこと

 「それは無理だよ」、「もっと現実をみなよ」など、人は人のやっていることを反対したりする。老婆心から反対をしているのかもしれないが、そんなことは本人が一番わかっていることで、それにも係わらず、彼(彼女)は実行しようとしているのだ。そして、上記の様な言葉で反対する人というのは、彼(彼女)が反対を鵜呑みにしてその通りにしても、その後の協力や援助などしない人々であることがほとんどだ。そして、実行しようとしている彼(彼女)の敵(足を引っ張る人)はいつも、このように反対する人々であったりする。

 一方、その彼(彼女)を応援する人々は、ささやかだったとしても援助や協力をしてくれることが多い。つまり、味方になってくれる人々だ。そして、その援助や協力がどんなに小さいものだったとしても、大変な時に協力や援助をしてくれた人々のことを彼(彼女)は忘れないものだ。忘れる人というのは大抵、反対する側になっていることが多く、反対する側の人に人は協力や援助をしないものだ。不思議なことに、人の循環というのはこのようになっていることが多い。

 加えて、彼(彼女)に対して何もしない人というのも、反対している人と変わらないことになっていることが多い。「何もしないことが彼(彼女)のためになる」というのは、存在だけで彼(彼女)のためになるような能力を身につけた人だけが言える言葉であり、何も無いということが死以外にはありえないことなのだから、何もしないということは大抵、純度の低いことをしているにすぎないのである。そして、「何もしないことが彼(彼女)のためになる」などと斜に構えている人に対して、人は何もしないし、価値を見出さないことがほとんどだ。そのような人々が今後、必要とされなかったり矯正されるような社会になっていくことは、他の項目で話しているから割愛させて頂くが、結局、斜に構えた生き方をするということは本人にとっても悪循環になっていく。

 つまり、何かに対して一生懸命に生きようとしている人々のことを無闇に反対するのでも、何もしないのでもなく、応援をしたり、協力をしたりする生き方をした方が、自分のためにもなるのだ。そして、「0か1か(全くないか、全くあるか)」などというのは人によって度合いが異なるので、そんなところで躓くのではなく、協力や援助に出し惜しみなど全く必要のないことだ。

 そして話は少し変わり、反対する人が言う「現実をみなよ」の「現実」とはいったい何を指して現実と言っているのだろうか? 生活をするのが現実であったり、肉体的に死んでしまうことが最も恐れるべき事態だとするのが現実であったりするのだろうが、そんなものは単なる「認識」でしかないことに気付くべきだ。ホームレスでも病人でも幸せそうな人はいるし、超お金持ちでも不幸そうな人だっている。つまり、現実というのも「物は考えよう」であり、自分達がこしらえている「現実という名の障壁」も単なる自分の認識で障害となっているに過ぎない。「もっと現実をみなよ」の「現実」は、考えようによっては簡単に飛び越えることが出来るし、人は誰でも幸せになれるし、やるべき「使命」を持っている。その「使命」に向かっている人ほど幸福そうな顔をするし、一生懸命生きている人ほど、素晴らしい顔をしている。そして、そのような人達を馬鹿にしなくなることが、幸せになる第一歩ではないだろうか。
(2009年10月15日 13:55)

 今日、書いていた「書き物」の1つです。創作や依頼仕事の合間、最近は1200〜1400字程度で項目を分けて書いています。当初は「20項目ぐらいかな」と思っていたら、今や17、8項目になってしまい、簡単に超えてしまう予感が・・・。1つ1つは項目として分かれていますが、相互に関係しているので、読破したときに「あること」が解るようになっていて欲しいです。

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