天命
2014.7.21日々のこと絵を描き始めようと思ったのは、いつの頃だろうか。物心がついた頃には既に描いていて、むしろ、絵を描いているところから記憶が始まったような気さえしている。家にはピアノがあり、姉兄はしっかりとピアノを習い、僕はというと何と無しに習い始め、そのままやる気をみせないまま、小学校の低学年で辞めたと思う。
中学以降も何と無しにデッサンをしては辞めての繰り返しで、特に熱心さは見せなかった。変わったのは、大学に写真と出会ったことだ。カメラは使い捨てカメラしか知らず、全てのカメラにフラッシュが付いていると思っていた。だから、「ストロボ」なんて単語は皆目見当がつかず、今でも当時のことを思い出しながら、「ストロボ」と言うと、どこかに気恥ずかしさが芽生える。
その後、「光を描く=photography」ということを知り、「写真」と「描く」ということが自然と合わさり、幼い頃に積み重ねた素養が、目を覚ました。しかし一方、写真を生み出す廃液処理の仕組みに嫌気がさして、デジタル環境に移行し、「物をもたない生活」が同時に始まり、iphoneで撮影するようになった。
iphoneで撮影し続けていたのは、自分にピタッと合うカメラがなかったという理由も手伝っていたが、今年からNikon Dfを使い始め、レンズはフィルム時代に使っていたマニュアル用のレンズで組んでいる。
このように考えると、僕が生まれてから今までに経験したことは、全て繋がっていて、何一つとして無駄なことをしていなかったということに気が付く。それは、喜びの前に、全てのことは決まっていて、僕らは決まった流れの中で、「自由」を謳歌しているに過ぎないのだと感じる。
とは言っても、たとえ、全てが天命として決まっていたとしても、自分の手と足を汚して、自分にとって未知であった領域を発見する喜びは、何事にも代え難い。その領域が誰かが既に辿り着いていたとしても、自分で辿り着くということが、楽しいのだ。
あぁ、思い出してきたぞ。この感じだ。
腕が写真であったらと想う。目が写真であったらと想う。体が、性器が写真であったらと想う。狂信的であろうが、自分の全人生が、そのためにあったのだと、真実に気付く感覚。時間がないことに焦り、残り時間の少なさに焦り、もっとつくりたい、もっとつくらなければという焦りとともに、傑作を送り出せというジレンマ。
そうだ、この感じだ。
僕は、自由だった。まだまだ、つくれる。