共有ゆえの感動

2013.9.19日々のこと

写真家として、写真について考えることは多々あります。単語のつくり、光学のこと、レンズを通した視覚のこと、シャッターを切るということ、被写体のこと、広告と藝術のこと、歴史のこと……。 
 
僕らが見ている物や色というのが、物体が持つ反射できる色の範囲で決まっているわけですが、その後に個人の眼の作りにも影響を受けています。つまり、少なくとも2つのフィルターを通している。そして、2つ目の個人の眼というフィルターによって、物事は個人に寄らなければならなくなる。そう、これが主観だ。 
 
物体の反射光は画一的に調べればいいので、客観の評価を出せるが、眼の作りを画一的に調べて数値を出したとしても、その数値で見える眼鏡でもかけない限りは、他人と同じ見え方は出来ない。それが顕著に表れるのが、色盲であり、僕が患っている飛蚊症もその1つである。
 
この主観との違和感が表れるのが、写真である。紙焼きだろうが、フィルムだろうが、モニターだろうが、今、目の前で見ていたものとの誤差を露にされ、自分の見方が他人にとって絶対ではない、ということを気付かせてくれる。
 
はずだった。
 
今までの評論などを漁れば、この程度のことまでは話されているだろうが、紙に定着されている像を見ることも、モニターに写し出されている像を見ることも、最終的には見ている人の眼を通しているのだから、主観なのだ。
 
緑の服が緑の反射光を持つように、モニターにはモニターが写せる色や形があり、それを僕達の眼が最終的に見ているに過ぎない。
 
つまり、どこまでいっても主観なのだ。だからこそ、全く違う見え方がしているかもしれない他人と、似たような感受性を抱いたときに感動が起きるんだよね。
 
最近、他人と感動するってことを、もう少し信じられるのかもしれないと、思うようになってきました。なかなか難しいけどね。

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