何故だろうと疑問を考える

2010.7.3日々のこと

 「何故、シンプルに生きられない人が多いのだろうか」と疑問に思った。今日死ぬ可能性は万人にとって平等に存在していることが本気でわかれば、今を一生懸命生きるしかなくなり、それが過去となり、明日となるということを、どうして真に理解することが出来ないのだろうかと疑問に思うのだ。

 本当に嬉しいことに、僕は知らない人達からも知ってもらっていたり、作品を買ってもらっていたり、好いてもらっていたり、嫌われて(?)いたりもしている。けれども、僕以外にもそういう人達というのは、自分の良い部分も悪い部分も含めて自分を洞察しようと努力をしているし、その上で、自分が本当にやりたいこと(やるべきこと)を見出してやっている。それは、とても大変なことだし、楽しいの一言では片付けられない程、辛いことがあり、一種の苦行のようでもある。

 そして、このことは業種を問わず、やっていけてる人達に共通していることではないだろうかと考えている。それを出来ている(わかっている)人達というのは、シンプルに生きているし、そんな人と話している時はとても疲れるけれども、とても有意義だと感じてしまうのだ。それがない会話というのは、疲れるだけであり、そして、「何でもっとシンプルに生きられないのですか?」という類いの質問を投げ掛けるのだが、決まって自己陶酔や逃避の回答をいただくのは、生きることを舐めているだろうと、憤りを覚えてしまうのだ。「自分のやりたいこと、やるべきことに真摯に向かえている人と話をしたい」と、会話をするときは常に願っている。

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(7.2.誕生日を祝っていただきました。ありがとうございます!一年の丁度真ん中の日に産まれました)

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