あいつという自分。

2019.5.21日々のこと

こういうことを書くと悪い気もするが、周囲の人は「江口らしさ」を求めてくれるが、江口は江口自身を飽きている。
飽きているから、新しいことをやったり、求められている「らしさ」にちょっと違うことを加えたりする。
そうやって、臨床心理学の写真学生は写真家になって、デザイナーになって、ディレクターになって、畑を耕して、デカビタCを飲んで妻に怒られている。
親鸞が非僧非俗であり、僧侶でありながら妻帯者になり、京都に戻らず、浄土宗から浄土真宗を作って旅を続けてしまったのが何となくわかる。
親鸞は親鸞に飽きていたんじゃないだろうか。
こういうことは、自分のことを客観的に見ようとすればするほど、起きることだと思っている。
自分のことを「あいつは」と言ってしまう感じだ。
もうちょっと、親鸞について調べてみてもいいかもな。

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