『髪の毛』という一本の線

2008.11.29日々のこと

漸く「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展を観に行けた。混雑のことは予々聞いていたが、やはり勿体ないほどの賑わいであった。ハンマースホイの作品たちを観ていると、その副題の通り、静かに深く染み入ってくる作品たちであり、モチーフなどのリズムによって清らかで美しいハーモニーの中をたゆたう作品たちであるからだ。たった一枚であっても、日の入るリビングやアトリエなどに飾り、お茶やコーヒーを飲みながら観ていたい、変わりゆく自然光の中を静かに眺めていたい作品であった。

その後、「ダレン・アーモンド」展を観て、今回はシリーズものの中から日本に焦点を当てた展示構成になっていた。日本人特有の空間や(図と地の)地の使い方をよく表されている作品であり、今月京都で茶室や襖絵などを観てきたばかりの自分としてはより一層身近に感じられた。

展示を観た後、展示中の写真新世紀東京展のレセプションに参加した。最近は特に多いが、そこで色々な方と話をしていて、作品や名前の方が作者本人よりも先行していく業界に芸能との違いが印象深かった。

そこでとても嬉しかったことに『髪の毛』という作品のことを僭越ながら述べさせて頂く。

『髪の毛』というのは「ギフトⅤ」の中のひとつであり、物理的なことをいうのならば、単に線が一本引かれているだけの作品である。そして、「ギフト」シリーズの中の一枚という位置づけを与えられていると思われる。
髪の毛にまつわる作品を挙げるのならば、以前にもいくつか存在し、たとえば昨年の『生きている』という作品の中では髪の毛が自立的な生物として群れをなして登場している。その他の髪の毛が登場する作品も『生きている』と似たような性質を持っているのだけれども、『髪の毛』という一枚はそれらとは全く性質を異にする作品であった。線を引くのではなく、「線を描け」ということと、撮影に失敗した4×5ポジフィルムを生き返らせ既存のフィルムでは得られないほどの美を描かなければいけないということに精力を注ぎ込み、それは即ち、藝術家としての全てがたったの一筆に込めなければならないことでもあった。勿論、他の作品も手抜きはないが、『髪の毛』という一枚は違っていた。極度の緊張から筆を進めるまでは身体の全てが強張り、上擦っており、その今から描かれるフィルムの前にどれくらいの時間、身動きとれずに対峙していたかは今でも恐ろしくなる。静止していた時間が数秒であったかもしれないし、数時間であったかもしれない。しかし、いざ一筆描いているときは、無駄な力が存在しなく、書き終わる頃(ものの数秒)には「これ以外にはありえない」と一瞬にしてわかる線であった。そう、精神が昇るより形而上的な部分での昇華がある一方、肉体的には憔悴しきっていた。
プリントをしているときにもあるが、格別に次元が昇る一枚というのがあるが、『髪の毛』という作品はまさしくそういう作品であった。

そして、遠矢美琴さん(企画ギャラリー・明るい部屋・オーナー)から『髪の毛』のことを話されたとき、とても報われたような嬉しい心になった。

コメントを書く