価値で価格を決める。
2016.7.23日々のこと最近、慣行農業・有機栽培・自然栽培の違いを説明することが多くなり、仕事で得た知識をフル活用しながら、もっと知識を欲している。
話をする際、以前は自分も知らないことだらけだったことを踏まえているが、それでも、その道のプロフェッショナル達があまりにも知識を持っていなさすぎることに驚くとともに、「自分のやりたいこと」の前に「自分がやるべきこと」があるのではないかと、頭がこんがらがってくるようになってきた。
ここに写真やデザインなどのクリエイティブらしい話が出てこないけれど、「手を動かすことによる精神的回復」、「多様な展開における統一性」、「各地域を結ぶITインフラ」、この3つが結びつくことによる「稼働率の向上」、そのために写真やデザインなどのクリエイティブは必要不可欠な存在となる。
仮に良い展開をそれぞれがしたとしても、ロゴマーク(シンボル)が機能していなければ烏合の衆に見え、若気の至りやおっさん達の集まりのような印象となる。そうならないようにするため、プロの手によって、企業(事業)の性質を理解して形に落とし込んだロゴマークを作ることは必要になり、ロゴマークの効果的な見せ方による展開の仕方も同時に必要となる。
発信の仕方も、タイムリーで多様な情報を見せる部分と、アーカイブとして整理整頓された品格を持った情報を見せる部分の2つが同時に存在しなければ、情報過多な現代のユーザーは他の情報に吸い寄せられてしまい、離れていく。
しかしだ、ここで費用について大きく疑問が生まれる。クライアントは費用を下げようとするのだが、費用を下げるということは、下げた分の価値のもので構わないという意味を持つ。例えばロゴマークについて、一つ2万円から5万円で依頼している案件をクラウドソーシングを見ていると頻繁に出てくるのだが、その程度の金額の価値で、一生、最低でも5年は「企業の顔」として使っていこうと本気で考えているのだろうか。それとも使い捨ての時代がこれからも続くと踏んで、使い捨てのロゴマークが欲しいのだろうか。企業の性質を表す顔としての価値、それをクライアント自身で下げているのが、「相談できるプロが近くにいない不幸」だと不憫に思う。
スキルが高いと評価を受けてきた日本のクリエイティブのはずなのに、いつの間にか、インスタント品質のクリエイティブになってしまうのだろうか。
「餅は餅屋」という慣用句があるように、プロは技術をいつも高めてきたし、これからもその技術を高めようと努める。価格を下げるということは、そこで得られたスキルやセンスを自分でも下げることであり、その過程で協力してくれた周囲の人達の価値も下げることにつながる。「足を向けて寝られない」というのは、恩人と会っているときにだけ粗略に扱わないということではなく、心の中にいる恩義を感じる人達に失礼のないように、自分の言動を選んでいくことだ。
時間や作業量で価格を決めるのではない。提供する価値で価格を決めることをしていれば、価格を下げることがどれだけ失礼なことか、制作者もクライアントも自ずとわかるのではないだろうか。