自由である

2013.5.18日々のこと

「自由である気持ち」というのを、忘れないようにしているかもしれません。年齢を重ねたり、経験を積んだり、技術が向上したり、社会の中で生きたりしていると、どうしても「こうでなきゃいけない」や「是が非でも譲れない」などの一本柱が生まれやすいです。
 
一見すると、その柱は強いように見えますが、実は変化を恐れたり、自分以外を排除しています。時には、正義の使者のように思われますが、そこで起きているのは必ずと言っていいほど「争い」です。撲滅、撤廃、排斥、非難、武力行使などの争いが生まれます。
 
そして、必ずと言っていいほど、争いは負けた相手を粉々に打ち砕きます。それは、敗者が復讐できないようにするためです。人は誰でも、恨みや憎しみの感情を知っていて、その感情から生まれる行動も感じ取れます。だから粉々にする必要が出てくるのです。
 
この「仕組み」に気付いてからかどうかはわかりませんが、一本柱というのを持たないような考え方をするようになりました。「こうでもいいかも」、「それもありだな」など、物事の前後で主旨が変わっていても良いという気持ちでいるようになりました。
 
「これは間違いかな」などの、正解を出したい気持ちや恥ずかしさが、少なからず僕にもあります。けれど、その気持ちが生じたことを感じたら、僕は冒頭の「自由である気持ち」を優先しています。ヘラヘラ笑って話せば、恥ずかしさも忘れていたりしますね〜。

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