物の寿命
2011.2.26日々のこと
「物」というのは10年が限界なのだろうか? 今朝、寝間着から服に着替えようとした時に、ベルトが半分ちぎれそうになっていることに気付いた。たしか、このベルトは中学か高校に進学する時に買ったものなので、12年以上は使用されていることになる。何度も補修し、革は色が退色しているどころではなく、元々の色さえ黒だったのか、茶だったのかわからない。加えて、本革が起毛してしまっており、スエード素材だったとも言えそうだ。そんなベルトがもう寿命なのだ。
現代においては、服は何でも寄付することができるが、ここまでボロボロになっているものは送れない。それは、これも補修を続けて最終的にはソールがごっそりと抜けた11年もののオールスターや、穴が開き、絵具がまんべんなく付着してしまった14年もののEDWINのジーンズ、袖口が解れた先にこれまたごっそりと破れた10年現役だったBLUEBLUEのパーカーなどと同じように、寄付も買い替えもできないアイテムなのだ。そんなアイテム達を使用出来なくなったから、「ありがとう」と捨てることも何故かできないもので、未だに手元に残っている。
僕は基本的に、使用出来ないものは手元に残しておきたくない性分であり、仕事道具以外のものは家に物がないような生活をしているのだが、これらは残しておきたくなってしまうのだ。いや、正確に言うと、捨てようとすると何か後ろめたい気がして、その結果に残してしまっているのだ。しかし、これはスニーカーをコレクションしている人のような「履く用」と「観賞用」を分けた結果残っているものではなく、いわば、自分の一部のような気がしているのかもしれない。そして、別のものを新しく買いながらも、手元に残しているのだ。それら、新しく使用される物達と今まで僕を育ててくれた物達が入れ替わる時期なのかもしれず、新しく手元にやってきた物達も手入れをしながら、10年近く使用出来れば嬉しいかぎりだと思っている。そして、昨年から履き始めた新たな靴やジーンズが、徐々に僕の体に馴染み始めていることに、心を弾ませている。