Both sides of representation

2010.2.19日々のこと

 トップを取って欲しいらしいし、生きていて欲しいらしい。そして展示を見たいらしい。過去の級友や仲間、観客や関係者たちからよく聞かれる言葉だ。

 数年前の私もそんなことを思ったりもしたが、作品を創り続けていくうちに、それらがどうでもよくなっていった。正確に言うと、たいして重要ではないということがわかったと言った方がより適している。いや、もっと正確に言っていこう。

 作品を創り続けているうちに「今のこの瞬間しか存在しない」ということがわかり、次いで、「今のこの瞬間を思えば、作品を観る事が出来るし、匂いを嗅ぐ事が出来る、行きたい場所へ行ける、行きたい時間に行ける、など」ということがわかったのだ。それらが過去となり、未来を創り、現在を生じさせているという、ただそれだけのことが在るのだと。だから一生懸命に考え、動けば全てが可能になっているという真理。すると当然の如く、「無」との差を痛感せざるを得なくなってくる。どれほど思っても、考えても、動いても、止まっても「無」からは程遠く、「無の境地」と言っても「無の境地」が在る事からは逃れる事が出来ない。どれほど傑作が生まれ続け、その果てに「無作の境地」となったとしても、それは「無」ではない。「無」に入った時には死んでいる。

 数年前から人間のために作品を見せ、話をしている。しかし同時に自分のやるべきことをやっている。だから、嘘はない、自分のためにやっているのだ。

コメントを書く