日本人が好きな最近の紆余曲折

2009.9.17日々のこと

 昨日、とても素敵な時間を過ごすことが出来た。そのことについては最後に話すとして、それが素敵だと思えたのには最近の『制作日記』も載せるのが良いだろうと考え、今回は特別に『制作日記』も載せています(ブログ用に言い回しを少し変えたり、削除している点があるけれども、内容や言葉遣いなどほとんど修正していないので読み辛いと思います)。凄い長いです。

『制作日記』
9.11.09 22:11
「生きることにも飽きた」と最近よく思うようになった。藝術も哲学も宗教も、気付き、それを伝える術を変えながらも同じところに向かっていくものだが、現代においてはどれも必要とされていないか、金儲けの道具にされがちだ。その意識を取り戻し発展させていくのが今の時代で出来ることだが、足を引っ張り、邪魔をするのはいつも同業者だ。たかだか人間の出来ることやすることなど予想できるもので、そうなると社会の動きだって予想も出来る。そんな時に、最初に挙げたようなことを思ってしまうのだ。駅に行く度に、「このまま海のあるところまで出ようか」などという想いが頭をよぎるが、駅に行くときは用事がある時なのでそのまま用事先の場所に向かう。天国も地獄もあってもなくてもどちらでも構わないが、死は単なる「無」だ。醜くも綺麗でもなく、己にとって無だ。「善く生きられるのなら、生き続けなさい」と怒られそうだ。

9.13.09 11:00
『未来への方舟』について。ワークショップ「現代写真倶楽部」第一期の特徴は、美術前史〜写真史(現在)までを網羅しながら、共同制作/個人制作を進めていったことだろう。そして、現代人が見せ掛けの個性を謳うことに始終しており、それとは異なる姿勢が過去に見受けられ、過去の姿勢が文化や社会を発展させてきたのならば、その姿勢を無視することはできない。つまり、物事の本質を掴み、視覚化することで、制作を進めることが今回のワークショップの性質を表しながら、現代以降に必要なことだと提示できる。物事の本質を掴み、視覚化することが私たち美術家(写真家)に必要な能力である。「視覚化」を「○○化」と書くと、「物事の本質を掴み、○○化することが私たち——に必要な能力である」となる・・・そう、全ての人間に必要な能力だったのだ。美術は全ての人間に開かれている。

9.14.09 9:18
ある兵器の映像を見ていて、ぞっとした。どんなに「戦争反対」や「戦争の愚かさ」を謳い、論理的に話を進めていっても、軍事兵器開発は止めることはない。そんなことを見たり、聞いたり、意識が向かう度に自分たちのしていることが徒労のような気になる。美術は物質を扱うあたり、徒労に終るのならば地球にとっては害悪だろう。そんなときに絶望的な気持ちになるのだが、業界内の人達がこぞって述べる「絶望的な状況」というのは「アートで食っていく可能性」のことなのだから余計に自分のしていることが害悪のように思えてくる。

9.15.09 21:47
たけしさんの番組を見ていて思った。攻め込まれた時のために兵器を持つのではなく、他の生命体を巻き込む争いを避けるために話をする。人類は知恵を絞って同じ人類と協力して進化、発展してきた。つまり、空虚な常套句になり下がってしまっている「人は一人じゃ生きていけない」という文句があるが、まさにその通りなのだ。僕が食料を食べることが出来るのは、それらを作っている農家の人達のお蔭であるし、栽培したものを運んでくれる人、八百屋を営んでいる人がいるからであり、会社が作って売っているんじゃない、人が行っているんだ。同様に、僕たちがいなければ彼らはやっていくことができないわけで、そのような意味においても、僕にはあなたたちが必要で、あなたには僕たちが必要であり、個人が他者を必要とする点で全ての人は平等だ。平等ということは、人が人をお互いに必要としているのだから、どこかの国がリーダーになる必要はなくて、そうすると、どこかの国は別の国に攻め込む必要もなくなってくる。何故なら、人が人を必要とするのならば平等であり、余剰を求める必要がないことを僕たちが気付けばいいのだから、これらに気付くことができれば、攻め込まれる前に攻め込もうとしている他者と話し、自分が気付いたように、その他者にも気付いてもらおうとするだろう。これは外交だけれども、政治ではなく、哲学だ。話をするのならば哲学だし、作品を創作するのならば藝術だ、求められれば何処へでも話をしにいくし、作品だって創作し続ける。一人でも気付く者が出てくる限り、僕はやる、やるしかない。本当に、争いをなくしてやる。

 以上が最近の『制作日記』に書かれた内容で、修正箇所は固有名詞を「ある兵器」としたぐらいです。人間が今のままでいる以上は、戦争はなくならないと思うが、全人類が真理に気付いたのならば本当に戦争はなくなると考えています。このように書いていると「戦争をなくしたいから作品を作っている」と誤解を招きそうですが、時代も文化も超える普遍的な真理に気付けば、結果的に「戦争がなくなる」ことが付いてくるきます。そうすると、「真理って何ですか?」と言葉で質問されそうですが、辞書に言葉で書いています。ですが、これでは言葉と言葉のイタチごっこになってしまいます。本当のところ、多くの人が真理に近づいたり、気付いたりしているのですが、その実体的な感覚や状態を掴み損なっているだけです。藝術も哲学も普遍性を求めるものというのは、全ての人々がその実体的な感覚や状態を掴み損ねないようにするための橋のようなものです。ですから、言語化されたものも視覚化されたものも、言ってしまえば「嘘」の部分が混ざり、真理そのものではなく、人々が真理に到達するための道具なので僕たちが気をつけなければならないところでしょう。けれども、藝術作品からも言葉からも人々は変わっていくわけで、そのような人が自分の回りにも現れ始めてきたことに一抹の喜びを見出します。

 そして、話は飛ぶが、昨日のことを「素敵な時間」と述べたのは、明るい部屋に作品を届けに行ったら久々に中島さんとも出会い、そのまま明るい部屋の展示空間で、秦さんと中島さんと3人でのらりくらりと作家と作品についての話を何時間も出来たからだ。最近僕は、当たり前な質問をするようになっているのだけれども、そこで「常套句(模範解答)」を述べるか、「その人の言葉で述べることが出来るのか」ということをみてしまっている。もちろん、深く突き詰めれば、この2つの内容は同じことを言っていると気付くだろう。しかし、「考えて行動する人」というのは面白いほど、自分の言葉というのを持っているし、良い作品を創る人は大抵、自分の言葉で話している。そして、15日の日記を書いた次の日にそんな贅沢な時間を持つことが出来て、話している最中、僕はずっと興奮していた。加えて、「考えて行動する人」というのは作品を創る人だけではなく、どんな職業でもいるわけで、そうすると、作品や作家が社会と隔絶された特別な存在ではないことも容易に理解できるし、藝術というものが本来はとても開かれたものであるということも簡単にご理解いただけるだろう。

 今、とてもやる気に溢れている。

(「ですます調」と「である調」が混ざってしまって申し訳ないです。そして、今回はとても読み辛い言い回しが多くなってしまったことも重ねてお詫び申し上げます)

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