草稿のようなもの

2009.3.15日々のこと

2回目の在廊日。

そのような理由もあって、2つ展示を観てから会場へ向かう。

その2つの展示というのは、1、昨年の写真新世紀の時に知り合った友人の中島大輔さんが参加しているグループ展。2、大学時代の後輩たちが催している卒業制作展。グループ展という意味では同じであるはずなのに、その意味合いは全く異なっている。1つは作家として、藝術作品として展示している展覧会であり、もう1つは自分たちが展覧会を開くことに意味がある展覧会である。
どちらが正しいのかは正確には述べることは出来ないはずだが、立地的にも来場者数が多いのは後者である。しかし、その来場者たちが、藝術作品を趣味(× taste ○ hobby)と弁別する能力があるかといえば、おそらくその違いはわからず、藝術家に対して何も払わずに済ませていることに何の引け目を感じることもないだろう。けれども、この状況というのはコマーシャルギャラリーへの来場者にも同様のことが言え、彼らは自分たちがどれほどのお得な状況にいるかということを理解していない。
それ故に、折り合いをつけることが出来なかった藝術家が自殺をしようとも、何の罪悪感を抱くことはないのである。

この現状の悪循環は、作り手にも蔓延しており、発表自体が自己満足で完結させてしまう作り手が多い、というのも事実である。

けれども、僕は藝術作品は創造性の循環をもたらすものであり、藝術家は作品を作りたい作りたくないということではなく、藝術において創ることを訴えかけられている作品を藝術として創らなければならないと思っている。これは職人仕事としてクライエントに求められているもの以上のものを表出することと似て非なるものであり、藝術はクライエントが実体として存在しておらず、だからこそ、藝術家は藝術という領域の価値を上げ、時代も文化も超えたところにいる人々にさえ創造性を豊かにしていくことに注意を払わなければならないと考えている。その鑑賞者にもたらされた創造性は、作品に倍加されて還元され、この循環がスパイラルとなって後世まで藝術作品が残る要因になるからだ。
たとえば、僕たちが先達の作品の時代背景に生きていなくても、もしくは知らなかったとしても、その作品から創造性を豊かにされ、作品を創ることができるようになるということが挙げられる。これは作品を創ることにならなくても、生活について考えが豊かになることでも同様のことがいえる。そのような作品が藝術作品の最大の魅力のはずであり、僕たちが意識しなければならないことであるはずだ。

しかし、現代美術業界やそれに準ずる業界では、商品としていかに回せるかが重要となっている。しかも、その業界のことや作家のことを門外漢の人たちには知られていないという、芸能の面においても取るに足らない悪状況に至っているのである。

また、その悪状況に気付いているのならば、これを終らせなければならないと意志を持つことが大切になってきている時代にもなっている。

※中島大輔さんが参加しているグループ展
 成山画廊にて3月21日までです。
 とても落ち着いた佇まいが静謐な会場です。

※後輩のグループ展
 東京藝術劇場にて3月15日までです。
 池袋駅から直結しておりアクセスにも優れている場所です。

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