2014.3.2日々のこと

生きる速度が速いのだろうか、どこか本質的なものから外れているような気がしている。そう書いてみて、本質的とは何だろうか? という疑問が生まれた。

今、考えついたのは、「生きる理由」だ。

作品をつくり始めれば、邁進できるが、それは悲しみに目を背けてきたのかもしれない。いや、制作は悲しみがある。歓びとともに、悲しみがあったのだ。

ダ・ヴィンチも、ウィリアム・モリスも、怒りとともに悲しみを抱えていた。ヘンリー・ダーガーも同じだ。

「おかし」という言葉をもって、日本人は悲しみと折り合いをつけてきた。そこには愛があった。感動があった。

しかし、それでも悲しみが勝るのならば、人はなぜ、考える力を手に入れてしまったのだろうか。

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