安定の伝え方

2014.6.23日々のこと

瞑想で木陰を見た。自分たちは宇宙の星々のたった一つであって、総体ではない。そういうことを見ながら、考えていると、自分が何ものかである必要のなさを感じるのだ。
 
しかし、常にそうであると、離人が起きやすくなるのも仕方が無いことだ。何ものかであることを求められる社会の中にいては、何ものかである必要のなさで過ごすには、いささか不安定なことになる。
 
それとも、その気持ちのまま、安定を保つことができるのだろうか。いや、もしかしたら、大地のような気持ちになれれば、大地と一体のような心持ちになれば、安定はしていられるのかもしれない。
 
つまり、地球と一体ということか、、、ん? いつもと同じ結果じゃないか。やはり、人間は地球と一体だったと感じることが、安定に繋がるのかもしれない。そして、地球は広大な宇宙の中にいる。広大さは無限だけれども、地球の位置は、我々の位置は一定である。そう、はじめから一定なのだ。何を焦る必要があったのだろうか。
 
いや、焦ってなどいなかったな。
 
伝えることの出来る方法論を、手に入れる必要があるのだろう。大事なことは、自分の修行次第ということが多い。どの文化、どの宗教においてもそうである。師、その人自身も修行中の身であり、一生涯修行ということになる。いやはや、実際そうなのだが、ある一定レベルの悟りの状態は、もっと簡単に伝えることは出来ないだろうか、と思うのだ。あまりにも辛く、苦しい状態を過ぎて漸く辿り着くのが「始まり」では、その苦しみを他人に与えろというのか。それは、酷だろうよ、と思うのだ。
 
もうちょっとラクに伝えられる方法論はないのだろうか。

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