悲しみの享受。

2015.5.6日々のこと

夕暮れは寂しく、朝焼けは期待する。しかし、悲しみはどちらにもあり、夕暮れには終わってしまう悲しさ、朝焼けには始まってしまった悲しさがある。
 
制作も同じだ。始まってしまった悲しさと、終ってしまう悲しさをいつも内包している。その過程には高揚もあるが、どうして続けられて来れたかというと、終ってしまった時に感じる寿命を喪失していく感覚を愛でることが出来るからだろう。
 
人生で得られることなど、微々たるものではないだろうか。失い、悲しみをどれだけ享受できるのか、それとも、何も気付かない振りをして体制に合わせているのか。失ったものにどれだけ早くに気付き、思い出していくのかが、幸せへの切符のように思う。

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