Archive for 2012

ひゃ〜、今年も食べたぜ〜

2012.12.20

今年も色々な物を食べた。そこで、「あれが美味しかったな〜」と思い出していくと、まっさきに上がってくるのが、お店で注文したものではなく、人の家で出てきた食べ物(お酒)や、持ってきてくれた食べ物(お酒)だったりする。その次に、お店で注文したものを思い出すのだけれども、そこでも「作り手の気持ちが感じられるもの」が上がってくる。冷製・温製とかって意味ではなく、人の気持ちの入った温かい食べ物を覚えているんだな。まぁ、美味しいっていうのは前提でしょうが。途中で必ず思い出す「キリンラガー」も凄いけれど、これはこれで僕の生い立ちと関係しているビールでもあるので、結局は「温かいお酒」に入るんだ。そして、月餅が食べたいぜ(台湾出身って聞くと「げ、月餅つくれる?!」と食い気味で尋ねてしまうようになってしまった……)。

施し型じゃなくて、自分らでつくる

2012.12.19

「幸せ」について語るよりも、「(誰もが)美味しいものを食べたいし、美味い酒を呑みたいんじゃないか?」と思っている。幸せという一言で括って会話をすると、解決の糸口は見つからなかったりするし、現在、戦争をしている人も、原発を最初につくった人も、肉を食わない人も、目の前を通り過ぎる人も、誰もがみんな幸せを考えているはずなのに、幸せの内容を確認しないことが問題なんじゃないかと思っている。
 
それに加え、「感覚に対してもっと素直でいいんじゃないか?」とも思っている。美味しいという感覚は「何を」美味しいと感じるのかは別だろうが、誰もがもっている感覚だろう。仕事が上手くいった後の、仲間と呑む酒は美味いと感じるが、知的でもなく、スマートでもなく、お洒落でもないような、野暮ったくて泥臭い集まりや内容で良いんじゃないだろうか。
 
ファッション、農業、トレッキング、自転車、草花をいじること、田舎暮らし、アウトドア、ライフスタイル提案型●●……全部、クリエイティブ業界が絡んで「今度はコレがオシャレですよ」と提示されたものばかりで、その後はスマートさや洗練さが必要になってくる(周囲では少ないが、ビールやかき氷もそうだろう)。ここに気付かないと、「自分で生むこと」や「自分たちで作りだすこと」というのが出来なくなっていき、観客席に座っているのに土俵に上がっていると勘違いをする。そして、本来縁遠かったはずのものに、洗練さやスマートさっていうのが欠かせなくなり、欠いている状態になることを恐れ、不安がる。けれども、「自分で生むこと」に気付いていないのだから、誰もいないところへ一歩踏み出すことにも恐れを抱き、その後は、誰かに引っ張り上げてもらうのを待つ状態になる。
 
僕は、小学校時代の焼き芋大会や、今住んでいる団地の炊き出し(今年出れなかったけど)が好きだ。どちらもスマートさとは程遠く、焼き芋大会では落ち葉を集め、枝や新聞紙を集めて焚き火をおこし、芋を放り込んだ後は走り回っている。炊き出しでは、若い人は僕ぐらいなもんで、もっと若いのはガキんちょ達になる。けれども、出てくる会話といったら「うめぇ〜」、「あったけ〜」という食べているものにダイレクトに向かい、「●●に届けようぜ」ということになる。知的でも、洗練されてもないが、知らない人達とメシを食べ、酒を呑み、「うめぇー」と言い、その話だけで盛り上がる——その時、みんな笑顔だ。
 
幸せの中身は人それぞれだろうが、俺はこれを幸せだと感じる。様々なことが施し型で降りてくるのではなく、職業や人種や背景を飛び越えてメシを食う。世界規模で同時に炊き出しって出来ないかな、と頭の片隅に置いておこうと思った。折に触れて、こんなことを話すかもしれないです。

白盤更新

2012.12.18

詳しくはこちら

やっぱり、反応があるって嬉しいことですね〜

2012.12.17

会話をするとき、「単語のすり替えをしないこと」に気をつけている。
 
たとえば、「写真」と「写真家」は異なり、写真と言えば領域や媒体のことになり、写真家と言えば職業名になる。この違いを理解せずに会話をすると、どこかチグハグな進み方となることが多く、「写真」と「写真家」以外にも「デザイン」と「デザイナー」の違いや、「美術」と「藝術」の違い、「恋」と「好き」の違いなど全ての事柄に当てはまる。
 
この年齢になってくると、周囲でも結婚の話題が増えてきて、世相を問わずに恋話は人気なようだ。そこでは大抵、「愛」と「恋」は違うと思われているのに対して、「恋」と「好き」というのは同一の意味として扱われている。けれども、「恋をする」と言うけれど、「恋になる」とは言わない(「恋仲になる」とは言うが)。同様に、「好きになる」とは言うけれど、「好きをする」とは言わない。
 
ここで、それぞれの言葉を分解してみると「○○をする」と「▲▲になる」という使い方があることがわかる。○○や▲▲に他の単語を当てはめてみると、「宿題をする」や「料理をする」、「一位になる」や「病気になる」という使い方が見つかり、「○○=対象」、「▲▲=状態」ということになるだろう。つまり、同義ではないことが考えられる。
 
これを踏まえると、好きになっても恋をしないことは出来るわけで、30億人を好きになっても一人にだけ恋をすることは出来るのだ。
 
会話が、単語を組み合わせて言葉を話すことなら、上記のようなことは当り前のはずだが、仕事をするようになっても出来ないのは、言葉が舐められているのではないだろうか、そんなことを思ってしまう。それでも、表情や雰囲気を見ることが出来ないSNSなどで言葉が溢れているのは、「自分の考えは簡単に伝わる」と思われているのだろうか。考えを伝えるのって、至難の業だぜ。だから、暑苦しくても熱量が感じられるように話すことが必要なんじゃないですかね〜。ぎゃーぎゃー喚けとは言っていないんだけど、スカしていたら喚く以上に伝わらないんじゃないですかね。「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」とマザー・テレサさんも映画の中で言っていたような。
 
(HPリニューアル後、たくさんの言葉を頂いてありがとうございます。頑張りますぜー)

EGUCHIMASARU.com

2012.12.16

EGUCHIMASARU.comのリニューアルをしました。
是非、御高覧ください。
また、リニューアルに伴い、「白盤」のURLをEGUCHIMASARU.comに統合しました。
ご注意下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
 
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