偏見を抱え込めば、私欲になる。

2013.3.23日々のこと

当り前だが、日本にいると良い部分と悪い部分がある。特に職業では悪い部分の特徴の方が目立つような気がしている。出身畑や年数を気にしすぎるところ、職業名を1つに絞ろうとするところ、引用元を明かさないところ(手柄を自分のものにしようとするところ)、批判をしておけば良さそうに思っているところなど、先進国として特殊すぎる国ではないだろうか。
 
海外贔屓になるところも良くないと思うが、上記のことはとても馬鹿らしいと思ってしまう。簡易的に人物の歴史を調べるとき、ウィキペディアを用いるが、職業や背景を調べるときには英語版の方を閲覧するようにしている。英語版の方が、職業名や活動領域、背景が詳しく書かれているからだ。
 
また、どのマスメディアも同じ情報しか提供できていないのに、「一部情報機関によると……」なんて引用符で済ましてしまうなんてありえない。そんなのだから、情報を伝えるだけで簡単に手のひら返しができるのだ。
 
加えて、(大別すると)僕は美術→音楽→心理学→写真→デザインの順で歳を重ねてきてよかった。時には専門に特化して、時には複合的に混ざって活動することによって、たくさんの人達と会話をすることが出来た。
 
それ故、人と会話をする時に、近々(きんきん)の事柄から相手の性格や背景へと潜っていくことで、自分の偏見がポロポロと剥がれていく。しかし、性格や背景、職能を排除し、表面的な部分にばかり目をやれば「潜っていく作業」は出来ない。そうして、否定語ばかりを用いてしまう国民になってしまうのだ。
 
年齢や経験を重ねることが悪いと言っているのではない。そうでしか得られないものもある。しかし、そこばかりなっていながら、資本主義に陥っているのは辻褄が合っていないのだ。資本主義の基盤は「安いものが良い」と「私の幸せ」だ。「質」と「皆の幸せ(共益関係、公益)」ではない。年齢や経験で得られるのは「質」だが、「安いものが良い」のなら、動けない奴らはいらない。そんな奴らを大事にせよと言われても、金を払って生活を支えてやろうとも思わないだろう。
 
よく、年金問題や子育て問題、TPPの不安で自分のことばかりが挙がるのも、「私の幸せ」の偏見しかもっていないからだ。「育てる意識」も「支える意識」も持っていない。老若男女問わず、精神が幼いこと——それが、日本の国益を下げてきた原因ではないだろうか。そして、少なからず僕の友人にも、共益関係に配慮しない人達がいるのは残念なことだ。そう、とても残念だ。

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