施し型じゃなくて、自分らでつくる

2012.12.19日々のこと

「幸せ」について語るよりも、「(誰もが)美味しいものを食べたいし、美味い酒を呑みたいんじゃないか?」と思っている。幸せという一言で括って会話をすると、解決の糸口は見つからなかったりするし、現在、戦争をしている人も、原発を最初につくった人も、肉を食わない人も、目の前を通り過ぎる人も、誰もがみんな幸せを考えているはずなのに、幸せの内容を確認しないことが問題なんじゃないかと思っている。
 
それに加え、「感覚に対してもっと素直でいいんじゃないか?」とも思っている。美味しいという感覚は「何を」美味しいと感じるのかは別だろうが、誰もがもっている感覚だろう。仕事が上手くいった後の、仲間と呑む酒は美味いと感じるが、知的でもなく、スマートでもなく、お洒落でもないような、野暮ったくて泥臭い集まりや内容で良いんじゃないだろうか。
 
ファッション、農業、トレッキング、自転車、草花をいじること、田舎暮らし、アウトドア、ライフスタイル提案型●●……全部、クリエイティブ業界が絡んで「今度はコレがオシャレですよ」と提示されたものばかりで、その後はスマートさや洗練さが必要になってくる(周囲では少ないが、ビールやかき氷もそうだろう)。ここに気付かないと、「自分で生むこと」や「自分たちで作りだすこと」というのが出来なくなっていき、観客席に座っているのに土俵に上がっていると勘違いをする。そして、本来縁遠かったはずのものに、洗練さやスマートさっていうのが欠かせなくなり、欠いている状態になることを恐れ、不安がる。けれども、「自分で生むこと」に気付いていないのだから、誰もいないところへ一歩踏み出すことにも恐れを抱き、その後は、誰かに引っ張り上げてもらうのを待つ状態になる。
 
僕は、小学校時代の焼き芋大会や、今住んでいる団地の炊き出し(今年出れなかったけど)が好きだ。どちらもスマートさとは程遠く、焼き芋大会では落ち葉を集め、枝や新聞紙を集めて焚き火をおこし、芋を放り込んだ後は走り回っている。炊き出しでは、若い人は僕ぐらいなもんで、もっと若いのはガキんちょ達になる。けれども、出てくる会話といったら「うめぇ〜」、「あったけ〜」という食べているものにダイレクトに向かい、「●●に届けようぜ」ということになる。知的でも、洗練されてもないが、知らない人達とメシを食べ、酒を呑み、「うめぇー」と言い、その話だけで盛り上がる——その時、みんな笑顔だ。
 
幸せの中身は人それぞれだろうが、俺はこれを幸せだと感じる。様々なことが施し型で降りてくるのではなく、職業や人種や背景を飛び越えてメシを食う。世界規模で同時に炊き出しって出来ないかな、と頭の片隅に置いておこうと思った。折に触れて、こんなことを話すかもしれないです。

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