諦めると信じないの違い

2012.12.13日々のこと

何故、人はその人自身を信じることが出来ないのか――そんなことを、ふと思った。諦めるというのは諦観という言葉があったり、無常観や粋という性質において重要な位置を占めるが、「諦める」と「信じていない」というのは全然意味が異なるのではないだろうか。
 
諦めるというのは、事実と照らし合わせて「これは天地がひっくり返らないと無理だな」という結論になるけれど、信じていないというのは「これをひっくり返すのは大変だから、無理と言っちゃおう」という流れになることが多い気がしている。
 
諦めるの「天地がひっくり返る」というのは文字通り、自然における事実のことである。「人は死ぬ」、「重力のかかる方に移動する」、「竜巻がおこる」、「地震がおきる」、「水にかかると濡れる」など比喩ではなくて自然のことである。これらは、どうしようもない。たとえ、長寿であろうとも人は死ぬ。川の流れをせき止めたら川は濁り、川ではなくなる。物事は常に変わり、朽ちていくことに抗うことは出来ない——つまり、諦めることが必要になってくる。
 
しかし、「信じていない」場合で「無理だ」と言うときは、その対象は人間がつくったシステムだったり、慣習であることが多いのではないだろうか? 人がつくったシステムだったり、慣習だったりというのは、いわゆる「概念」だ。人の頭の中にあることだ。それが現実に表れているだけのことであり、建物のことを「会社」と言うのも「あの建物には○○という会社が入っている」と思っているからであり、その会社でさえも「○○という会社の『肩書き』を名乗った人がいる」と思っているからだ。そして、「書類上」の「約束」で、会社はその建物に存在していることになっているだけであり、書類の住所が変われば、違う建物にあることになる。全て、人の頭の中で考えていることが、自然という現実の中に表れているにすぎない。
 
ということは、システムや慣習が変わらないのは、多くの人達が「無理だ」と思って、それが現実に表れているのであり、「多くの人達」を生んでいるのは一人一人の人間であり、その一人一人が「無理だ」と思わなければ、多くの人達が「無理だ」と思うことは出来ない。つまり、君自身が「無理だ」と思ったことが現実に表れているのだ。それって、自分で自分の首を絞めているだけじゃないのだろうか? システムや慣習の内容が悪いものだと判断できたのなら、「変えることが出来る」と君が思っちゃえば動くことが出来るので、変えると思ったことが現実に表れる。けれども、「無理だ」と思ったら、動くことは出来ないから「無理だ」と思ったことが現実になっちゃう。
 
変えることが出来る——そう、僕は「思って」いるんだな。

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