一服してもらう

2012.11.16日々のこと

朝のランニング——終着点にしている公園に着くと、見慣れないじーさんが掃除をしていた。気にせずにうんていで運動をした後、空を見上げるのに良い位置へ移動している時に、じーさんが話しかけて近づいてきていることに気付いたのだった。
 
掃除をしているから「汚さないでくれ」と注意されるのかなと思っていたら、なにやら掃除の苦労話をして近づいてきているようだった。その流れで話始めたのだが、聞けばボランティアで掃除をしているとのこと。しかし、3〜4時間掃除をして昼飯はおろかお茶のひとつも出てこないらしく、この公園は子どもたちの遊び場としては自然も合わさってよく手入れがされている良い公園なのだが、その反動か、怒髪天になってしまった。
 
僕は昔からボランティアやインターンというものが大嫌いだ。ギブアンドテイクが好きだと言った方が適切だろう。そして、働いてプラスをもたらした相手にはそれ相応の対価を与えるのが当然だと思っているのだが、経験や気持ちという誰でも当り前に持つものに対価を置き換えているところが気に入らない。それ程までにその経験は素晴らしいものなのか。支払いが出来ないだけではないのか。しかも、この批判に対して怒る相手というのは大抵、自分の善意のために他者の善意を利用していることを理解していない。聖人君子も骨と肉がついている人間だ。利用された他者は、お前のために死ぬぞ。
 
僕の家は、職人を呼んだり、重たい物を家に運んでくれた業者に対して、お茶と茶菓子を出していた。お昼をまたぐときは昼飯も出していたと思う。子どもの頃は「奴らは仕事なんだから、サービスが良い方が客も離れないだろ」と思い、わざわざ一服してもらうことを良く思っていなかった。しかし、一服中に覗き見たり、相手をしてくれる職人や業者たちがカッコイイこと。面白い話を聞かせてくれたりと、幼い僕の相手をよくしてくれて、その経験が「他の業種の人達と話す」、「他の業種でも同じ人間だ」という、今の素養にもなっていることは確かだろう。
 
そして、子どもの頃に抱いていた一服への批判は、加速していく消費社会と資本主義に繋がり、その破綻ぶりは誰もが知っていることだ。加えて、ボランティアやインターンという言葉が広がり、当り前のように使われだしたのも、消費社会と資本主義の加速時期と重なっていないだろうか。つまり、他人の善意を利用するだけっていうのは破綻しているんだよ。関わってくれた人を消費してポイ捨てはいけないよ。

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