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2012.9.2日々のこと

何かしらの主義、思想の話を読んだり、触れたりしていると必ずといっていいほど制限や規制の話に関わってくる。ふと、制限や規制の根底にあるものは何かと考えていたら、やはり「不安」や「恐怖」の類いだと行き着いたのだった。主義や思想や考え方というのは、必ず何かしらの道筋があり、その道筋を妨げるものは邪魔者だ。そんな邪魔者が自身達の道筋やコミュニティに流入し、理想としていたものが変えられることへの不安が、制限や規制、批判などとして表れてくる。
 
そこまで行き着いて、「僕にとっての不安や恐怖とは何だろうか?」と疑問に思った。パッと思い浮かんだのは、ミスをしたと感じたときだ。作品でも依頼業でも、制作中に「やばっ」と思ったときは、不安や恐怖と言える感情が芽生えている。「作品に鼻水垂れちゃった」や「データ消しちゃった」など何でもいいが、思い描いていた理想像から外れ、完全と思われていたところではない着地点に付いたときだが、ここでもふと疑問に思った。「完全ってなんだ?」と。むしろ完全というものがあったとしよう、そこには理想としていたものがかっちりと存在し、変化もない。けれども、変化がないものが、あるのだろうか。否。全ては刻一刻と変化しているのだから、完全というものはないと言うか、常に生まれては消滅していると言った方がいい。
 
すると「ミスった」と思ったときに生じる不安や恐怖も、リカバーすれば良いだけの話であり、自身が柔軟であればいいだけの話なのだ。今までそうして生きてきて、リカバーの結果、技術にしろ価値観にしろ、何かしらの領域が広がり、深まっていった。そして、そのように生きていても、不安や恐怖を感じることができるのだから、何とメリハリのある人生なのだろうかと、感動してしまった。
 
このように生きてきた結果なのかもしれないが、10代、20代の頃よりもキリキリすることもワタワタすることも減った(「減ってしまった」とも言える)。しかし、周囲の年上達を見ていると、なかなかそうでもなかったりするので、この違いは何だろうか?と疑問に思う。

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