征服や支配

2012.5.10日々のこと

「『世界征服』は可能か?」(著・岡田斗司夫)を読んでいた。世界征服のタイプと、征服後の支配している世界を考察することで「悪とは?」という問いについて述べている。世界征服を夢見た少年時代をリンクさせながら始まる切り口から、いつの間にか「支配」、「階級≠階層」などに言及されていることなど「さすがガイナックスの元・代表取締役」と納得の書き方だった。
 
途中、アメリカの南北戦争やグローバリゼーションについても書かれていたためか、アメリカについて「おぉ、なるほど」と思う事があった。
 
なぜ、彼らは英語しか話さないのか? 自由貿易をなぜそこまで推してくるのか? 聖書のベストセラー(無料でもらえるけれど)性について、以前、何となく疑問に思った事柄が腑に落ちたのだった。学生時代、歴史の授業で学んだと思われるが、植民地にした地域ではまずその地域の言語を禁止し、支配者側の国語教育に力を入れる。言語が通じた方が、支配者側の「自由」の幅が広がるのだ。同様に、市井の活性化には経済が滞り無く行われるのが良い。そのためには自由貿易の方が有利であり、これを行うためには言語は統一された方が都合がいい。なぜならば、力だけの勝負になり、頭がきれる、人を使うのが上手いなど、個人の力量がものをいうからだ。自由度が高ければ、このような人間が組織のトップにたつだろうし、組織のトップにたったとしても言語が通じなければ、地域の雑兵である社員に令状さえ提示することができない。そのために、言語を覚えさせることが必要になるのだが、役目を担うのは宣教師と聖書だ。「あなたのためですよ〜」と近寄る宣教師が渡すのは、英語で書かれた聖書である。たとえ英語で書かれていなくても、言語というのは精神や考え方、論理の組み立て方を表しており、一冊読み終える頃には、相手(支配者達)の論旨の組み立て方を掬い上げることは出来るようになり、その後に、英語を学ばせても吸収率は読んでいない人と比べると違うだろう。
 
つまり、統一度の高い言語を持ち、尚且つ「自分は有能だ」と思っていれば支配が出来る「自由」の方が都合がいいのだ(しかし、以前にも述べたが、全くの自由というのは存在せず、限定的な自由しか存在しない。つまり、ある束縛からの解放だが、別の何かには束縛されているということだ)。
 
力を望んでいるものは、自由を求める。少年時代の自分を顧みても納得だが、言語においても力と自由が現れている。僕は社員という言い方が苦手だ。同様に後輩という言い方も苦手であり、仲間や友達、チームと言ってしまう。この場合、どんなに有能でも自由は減少してしまう。そこでは性質が重要になり、性質をいかに長所に昇華させているかが重要になってくる。それで集まったらトップからの命令ではなく、いかにして歯車を噛み合わせるかが重要になってくる。この歯車が噛み合ったときに発揮するパフォーマンスは奇跡と呼びたくなるほど輝かしく、興奮してしまう。むしろ、船頭多くして船山登るとなっても、(言葉の意味ではなく)言葉通りに船が山を登ったら面白いなと思ってしまうのだ。

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