感じ取る

2012.3.10日々のこと

住居の外壁工事によって、ベランダ越しに作業員が行き来している。そういえば、工事のしおりに「レースのカーテンなどのご使用を勧めます」と書かれていたが、何を隠せばいいのだろうかと疑問に思ってしまったので、普段通りにカーテンを開けて覗けるようにしている。だからといって、作業員は覗いているはずもないだろうが、目が合ったら目挨拶をするだろう。
 
そもそも、日本の住居は隠しすぎではないだろうか? 正確にいえば、遮るものが多過ぎるのだ。狭い国土に狭い住居、それにもかかわらず壁をいくつも設けて部屋を小分けにする。その壁の先は、誰が(何が)どうなっているのかはわからない。古来、襖や屏風などによって遮ることをしていたが、人の気配はあった(はずだ)。それは覗かないことの礼儀と貴さ、そして人がいることの安心感があったはずだが、分厚く硬い壁で閉められてしまえば、その先の気配を感じることは難しいだろう。たとえ、気配を感じたとしても薄過ぎる気配は、不安や苛立ちを生じさせる。単身赴任者の浮気や被介護者の孤独、子どもの不安など、これまで問題とされてきたような事柄が生じるのも、人の安心出来る気配がなくなったのが要因の1つともいえるだろう。また遮られることに慣れてしまえば、他者への配慮と礼儀が欠ける言動が増える一方、知ってもらいたい病やマナー過敏の現象が生じる。
 
これらのことを感じ取っているのかは知らないが、各地で「見える」住居が建てられている。これは、外や住居内から生活の一部が「感じ取られる」ような建物のつくりだそうだ。以前、TVでこのことを知ったとき、「すばらしい」と声に出してしまったほどである。礼節があれば、人に見せるべきものと隠すものの区別はつき、マナーや批判に対してそれほど過敏になる必要もないことはわかるはずだ。そして、礼節は人と接することで培われていくものだ。

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