九相図

2011.7.13日々のこと

 「九相図」が好きだ。そう言うと不思議がられるが、生きている状態から意識をなくし、死体となり、腐り、白骨化し、骨が砕けていく図は「死とは何か?」と考えさせてくれる。僕らは意識がなくなり、脈が止まり、息を吹き返さなくなったら「死んだ」と断定するだろう。もしくは、医師から「○時×△分、死亡確認」と言われたら「死んだ」とするのだろうが、その状態でも細胞は生きており、腐り、ウジ虫などの栄養となり、白骨化しても骨細胞はある。たとえ、跡形も無く消え去ったとしても、誰かの記憶にあったり、伝記などから新たに記憶されたりする。そして、「我思う、故に我あり」と所謂「生きている」状態でさえも全ては主観なのだから、誰かに思われる状態にあればそれは生きていると言えるのだろうか、などと疑問が生じてくる。もしくは、たとえ白骨化したり、「死んだ」と断定された状態であっても「意識がない」と周囲から思われているだけで、実は白骨化しても意識を持っていたらどうであろうか? 意識は脳の機能なのかもしれないが、脳が「なくなった」ら別の部分が「意識する」機能を持つようになっていたらどうであろうか? 脳の「意識する」機能がなくなる瞬間、最後に見たものにその機能を憑依させることをしており、ただ表意することができていないだけであったらどうであろうか? というような類いの疑問が、「九相図」を観ていると思い浮かんでくるのだ。いや、普段からそんなことを考えているのだが、より鮮明になってくると言った方が正しい。
 
 そして、この世の中は「もしかしたら」という可能性に満ち溢れているのだということを再認させられる。

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