靖国神社へ

2011.6.11日々のこと

 諏訪敦さんの展示を観に行ってから、「ちょうどいいや」と靖国神社へ。今まではそれほど興味はなかったが、今年の初めに行った健康診断で医師から、戦死した大尉(少佐か忘れたが、何か位のあった人)と苗字が一緒だということで、診断結果の話ではなく、延々とその戦死者の話をされ、そして、靖国神社にはこの戦死者の銅像が建っているとのことで靖国神社に興味が湧いていたのだった。

 
 それで、いざ行ってみたら・・・ねぇでやんの。それらしい銅像はあり、文章を読んでみたのだが、一向に江口の単語が出てこない。しかし、発見もあった。医師との話とは若干異なっていたことに「あのじじぃ」と思いながら、靖国神社から出ようとした時に、出入り口のところで老人が深々とお辞儀している光景と遭遇したのだった。参拝中(銅像捜索中)に「案外、普通の場所だな」と思っていたのだが、靖国神社を靖国神社たらしめるものというのは、念のような社会常識なのだ。これは名産品やありがたいお食事などとも同じで、人の造り出した念造物が靖国神社なのだった。それは、興味を湧かせた医師が、「その江口っていうのが、所謂今で言うところの自爆テロをやったんだな。それで○○戦争を勝ちに導いたんだよ。いわば英雄だな」というような口振りで話していたように、如何に何人もの人を殺そうとも「戦争で勝った=英雄」という考え方や、今日見かけた老人のお辞儀、そして碑文に書かれていた「散華」という表現などからも察することが出来る。それが靖国神社であり、多くの人の念が造り出している念造物なのだ。

 
 それは、ユングの言う集団的無意識とも異なるし、何かを「美しい」と感じる美意識とも若干異なるような気がしたのだった。

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