医術、藝術、科学の道

2011.5.27日々のこと

 死にまつわる文献を読んでいると大別して3つのパターンにわかれるということがわかった。1つは「無になる」、2つ目は「肉体が死ぬだけで、精神(魂、etc)が自由になる(精神は生きている)」、3つ目は「精神が死ぬが(精神という機能が停止するが)、肉体は腐り、骨となり、どこまでが生なのか、死なのか」というパターンだ。そして、死に対しても「わかる」、「わからない」という前提で話を進める2つのパターンがある。
 
 このパターンで進めると、僕は死を「わからない」前提で、わからないからこそ、全てのパターンがある程度合っているともとれるし、全てのパターンに対して懐疑的な立場なのだ。そして面白いのが、どのパターンで話している人であっても、この手の本質を「わかる人はわかるし、わからない人はどうやってもわからない」と言っているところである。その点は僕も同じに考えていて、どんな人間でも自分にとって正しいことしか考えていないので、わからない人はその人として正しいとする考え方や癖を持っているのだから、その場でわかったとしてもフリなのだ。
 
 もう1つ面白いのが、どのパターンも結論としての考え方が異なっているのに、根底の考え方や道筋は同じであったり、近かったりするのだ。なぜ、こうまで異なる結果になるのだろうと考察してみると、それぞれの職業に由来することを発見し、「職業というのはその人を表すのだな」と思ったのだった。そして、どの職業も身近にして育ったことに思い当たって、笑ってしまったのだった。

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