発することと受けること

2010.12.21日々のこと

 今、『ミミズの話』(著:エイミィ・ステュワート、訳:今西康子)を読んでいるのだが、これが面白い。ミミズと言えば、今では夏の炎天下に「あちぃ」とうだって歩いていると道路で干涸びている姿を見つける程度になってしまったが、小学1年生の頃は、教室で飼っていた金魚の餌として校庭からよく採っていた。

 この本との出会いは偶然であり、先日、大判プリンターが空くのを待つついでに、本屋に寄って見つけたのだ。本読みになってからは、本屋や図書館などの本が集まる場所に行くと、その時に自分が読むべき本が僕を導いていくような気になる。そして、いつの間にかその本の前にいて、手にとり、読み始めているというような流れだ。

 これは作品でも同じで、今、創るべき作品が僕を導き、創らせているような気持ちになる。本読みと違うのは、導かれながら、間違わないように、且つ、より良くなるように意識を高め、必要な動きをするということだ。感覚はどんどん鋭角的になっていってしまうが。いや、もしかしたら本読みも一緒なのかもしれない。言葉が厄介なのは、読んだ気になってしまうということだ。内容を咀嚼しなくとも、作者の書き方や伝えたいことを予測しながら読まなくても、字を追っていけば自ずとページは進んでいく。それで、言葉を知った気になり、本を読んだ気になる人達が多いのではないだろうか。それは作品も同じで、だからこそ陳腐で粗雑な作品が、この世の中に溢れているのではないだろうか。

 言葉を読んだり、話したり、作品を観たり、創ったりという受けることと発することは、同質上にその人にあるのだ。つまらない言葉しか発しない人であれば、何も受け取れずにいるし、芯のある言葉を発する人であれば、必ず有益なものを受け取っている。

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