美と結びつけてしまう性質

2010.10.7日々のこと

 作品を創作すれば、必ず真逆の性質の作品も進むことになるのは昔からだった。

 性質というのは全てにあり、全ての人間が持っているものでもある。そして、人間を考えるとき、現代人から藝術が必要のないものと思われていたり、それほど重要なものとは思ってもらえていないことを考える。仮にそのような人間しか今後生き残らなくて、数在る名作や美術館の全てが廃棄されたとしよう。そして、栄養なども栄養剤で摂取しても十分すぎるような状態になり、何もしなくても全くの無菌で埃も生まれない社会になったとしよう。そのような社会なのだから、合理性の高い動きだけを求め、機能だけを追究した社会でもあるだろう。

 多くの人達が「そんな社会はつまらない」と否定するだろうが、僕はこのような社会になることは否定しない。

 なぜならば、栄養剤を摂取する際の動作にさえ、「美」を見出そうとしてしまうのが人間だからだ。極度に合理性を求めた人間しかいないということは、不合理な動きをしないということであり、スポーツでもそうであるように、より合理性の高い動きは良い結果をもたらすとともに、観客の目を釘付けにする。彼らの体や動作の美しさが、同時に結果をもたらしてもいるのだ。しかし、人間はどんなに頑張っても完全な動きが出来ない存在でもある。だからこそ、よりよい動きをしようと「努力」をし、「追究」をする。その姿を他者が見て、魅了される。つまり、「美」を感じ、藝術の種が生まれるということだ。その後は、予測がつくだろう。

 人間はどんな社会になっても、「美」から逃れることは出来ないし、藝術と無縁でいることなど不可能なのだ。だからこそ、藝術を必要の無いものと思うのは、人間が生きる上でも勿体ない生き方をしていると考えられるのである。

 そして、人間について考えるとき、このように「美」や「藝術」と自ずと結びつけて考えてしまうので、僕はこれを仕事としているのだ。人間として生きて死ぬのであるから、何と結びつけて考えてしまうかが、その人の性質なのだ。

2 コメント to “美と結びつけてしまう性質”

  1. ryusuke Says:

    「何と結びつけるか」普段考えもしなかったけど、誰もが無意識の内にしている行為ですね。何と結びつけているかを自分で分かっている人は、どんな仕事をして、どんな人生を歩むとしても幸せなのでしょうね。というか、自ずとする仕事、そして人生が決まっていくような気がします。

  2. eguchimasaru Says:

    そうだと思います。僕は「美」と結びつけていますが、それが「食」でも「コミュニケーション」でも「子ども」etcでも構わなく、そこに正直に動けば仕事になっていくし、その仕事に対する職業だってあるはずです。見合った職業がないのなら、新たに作ってしまえばいいだけだと考えています。

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